蕎麦屋「若松」には、その後も機会を見つけては通い続けている。日暮里の知人だった優駿4代目編集長福田喜久男が亡くなってからも、故人がそっと教えてくれた蕎麦屋として、その味を楽しんでいる。2011年10月に初めて「若松」との衝撃的な出会いを綴った。最も、それとても最初の出会いから半年ほど経ってからのことだった。隠れた蕎麦の名店として、本当は秘密にしておきたかったのだったが・・・。
<2011年10月 了>
400枚を超える仕事(来春刊行予定)の最終段階の打ち合わのために、東京西日暮里の知人を訪ねた。
すぐに打ち合わせは終わり、私たちは定番コースである蕎麦屋に行った。この蕎麦屋があることを知ってから、私は敢えて西日暮里での打ち合わせを希望するようになっていたのだ。
開成高校のある西日暮里駅前から歩いて5分。日暮里駅からなら4~5分の2丁目の場末の路地裏ともいうべき場所に、蕎麦屋「若松」はある。実は、今は路地裏だが、その昔に新しく広い道が作られる前は「若松」のある通りこそがメインストリートだったという。
必ず食べるのは、シンプルな更科系の盛り蕎麦。
2流の蕎麦屋のもり蕎麦は、蕎麦がパサついていて、箸で掴むとかたまりとなってくることがあるが、ここの蕎麦は、決してそんなことは無い。蕎麦一本一本が、まるで独立して存在しているかのごとく際立っていて、しかも全体のバランスを保っているのである。
それこそツルツルと艶っぽく、プリッとしたこしがあり、蕎麦の旨味が感じられる。日本の盛り蕎麦ここにありだ。
蕎麦汁がまたいい。少し甘口といえるが、この蕎麦にはこれしかないという印象で、尾を引いて、すぐにまた食べたくなる媚薬のような誘惑を醸し出す。
それが、大盛りで600円だ。これまでも蕎麦好きの私だったが、「若松」の盛り蕎麦に匹敵する蕎麦を、恥ずかしながら体験してはいなかった。老舗と称えられているどこの蕎麦にも負けない味だ。
思えば、東京という都市空間は凄い。こんな宝物が、場末の片隅に存在しているのである。
いい意味での競争が、こんな名品を生み出すのだろうか。
美味いものには、知恵と工夫が込められている。
それにしても、不味いものを毎日毎日作り続けている料理人の頭の中を、一度覗いてみたい衝動に駆られる今日この頃であるな、ウン。
ああ、また食べたくなってきたぞ、若松の蕎麦を。
<2011年10月 了>
400枚を超える仕事(来春刊行予定)の最終段階の打ち合わのために、東京西日暮里の知人を訪ねた。
すぐに打ち合わせは終わり、私たちは定番コースである蕎麦屋に行った。この蕎麦屋があることを知ってから、私は敢えて西日暮里での打ち合わせを希望するようになっていたのだ。
開成高校のある西日暮里駅前から歩いて5分。日暮里駅からなら4~5分の2丁目の場末の路地裏ともいうべき場所に、蕎麦屋「若松」はある。実は、今は路地裏だが、その昔に新しく広い道が作られる前は「若松」のある通りこそがメインストリートだったという。
必ず食べるのは、シンプルな更科系の盛り蕎麦。
2流の蕎麦屋のもり蕎麦は、蕎麦がパサついていて、箸で掴むとかたまりとなってくることがあるが、ここの蕎麦は、決してそんなことは無い。蕎麦一本一本が、まるで独立して存在しているかのごとく際立っていて、しかも全体のバランスを保っているのである。
それこそツルツルと艶っぽく、プリッとしたこしがあり、蕎麦の旨味が感じられる。日本の盛り蕎麦ここにありだ。
蕎麦汁がまたいい。少し甘口といえるが、この蕎麦にはこれしかないという印象で、尾を引いて、すぐにまた食べたくなる媚薬のような誘惑を醸し出す。
それが、大盛りで600円だ。これまでも蕎麦好きの私だったが、「若松」の盛り蕎麦に匹敵する蕎麦を、恥ずかしながら体験してはいなかった。老舗と称えられているどこの蕎麦にも負けない味だ。
思えば、東京という都市空間は凄い。こんな宝物が、場末の片隅に存在しているのである。
いい意味での競争が、こんな名品を生み出すのだろうか。
美味いものには、知恵と工夫が込められている。
それにしても、不味いものを毎日毎日作り続けている料理人の頭の中を、一度覗いてみたい衝動に駆られる今日この頃であるな、ウン。
ああ、また食べたくなってきたぞ、若松の蕎麦を。
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