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9月, 2018の投稿を表示しています

時計を耳にあてると・・・

機械式の腕時計を耳にあてると、小さな音だが手巻き式だとカチッツ、カチッツとか、自動巻きならチッチッなどと、軽快な時の響きが聞こえてくる。それは心地よいさわやかな響きだ。 ここしばらく手間を省いてクォーツタイプの腕時計を使っていたから、確かに時が刻まれていく音を忘れていた。クォーツタイプは無機質で無言のまま針だけが進んでいくように思えてならず、耳にあてようともしなかったからである。(手元にあるオメガのクォーツを試しに耳にあててみたら何と小さな響きでカチカチ音がしていて驚いてしまった) 現在、Girard-Perregauxの角型手巻きとジャイロマチックと呼称する自動巻きを持っている。個人的には、機械式の腕時計は60年代から少なくとも70年代には、品質の基本設計はほぼ完成期を迎えたと考えている。そこから先はおそらくデザインなどのマイナーチェンジで目先を変えてきたような気がする。完成期を迎えた段階の機械は、おそらく90年代初頭には完成期を迎えていたガソリンエンジンの車もそうであるように、もはや発想そのものを衝撃的に変えるような革命的な技術革新などは無用だったろう。 完成期に達した機械は、それ故素晴らしい耐久性や追随を許さない精度を持つものだ。それは、手元にあるジラール・ぺルゴの腕時計でも証明されている。 現在の日本では、ロレックスやオメガの方が一般の知名度は高いが、実はGirard-Perregauxは、世界の時計の牽引車だった。日本とも縁を持っている。 ジュネーブの時計職人ジャン・フランソワ・ボットが自らの手によって初めて時計を作ったのは1791年だった。「世界の時計の帝都」ラ・ショー・ド・フォンの街を舞台にして往時180人もの時計職人を雇用して運営されていたボットの技術を後継するボット社(マニュファクチャリング工房と言った方が正解だろうか)を1906年に買収したのが、Girard-Perregauxである。 Girard-Perregauxは、1856年に結婚したコンスタン・ジラールとマリー・ぺルゴの名を組み合わせた工房名で、やがて東洋世界にも進出を目指し1859年にコンスタンの義弟フランソワ・ぺルゴをシンガポールに派遣した。翌1860年、フランソワは江戸末期の日本にも脚を延ばし、日本に初めて西洋時計をもたらしたのだった。

夏過ぎて 秋来るらし・・・

ここ1週間、ようやく秋の気配が強まっている。 昨夜は中秋の名月の宵を迎えていた。中秋の名月の宵というのは、聞くところによれば、旧暦の8月15日であるという。太陽暦が始まる明治以前の人たちの8月15日は、既に秋の訪れを感じさせる満月を慈しむ夕べだったことだろう。 山の暮らしにも、明け方の思わず身が引き締まるような冷んやりとした気温や、黄昏を過ぎると騒やぐ幾種もの虫の声たちに、季節の移ろいを知らされるのだ。 この移ろいを感ずると、いつもホッとする。 燃える夏には、私は殺戮者=キラーマンだったからだ。間違いなく私は、真夏の殺戮者、いやそれ以上の虐殺者である。毎日のように10か、それ以上の命を抹殺し続けて、生きている。 それは、私自身の満足を得るための快楽殺戮、快楽虐殺であるのかも知れない。 犠牲者は、人ではないのが、私自身のせめてもの贖罪である。勿論、世の中には殺したくなるような人としての謙虚さも持ち合わせていない愚かな虚偽癖のある傲慢人間たちもいるのだが、まだ今の段階では、彼らは標的にはなっていない。おそらく、やがて彼らを本当に裁くのは、灼熱地獄の閻魔大王だろうと信じている。 真夏のキラーマンである私の標的は、カメムシ、蚊、羽虫、コバエ、蛾、アリ・・・たちだ。特に机回りの明かりに引き寄せられてくる奴らは、容赦なく叩きのめすことにしている。 山暮らしを始めた頃には、奴らの侵入も許容していた。カメムシが照明スタンドの上側のフレームを歩いていて、その姿が照明の灯りで壁に映し出されて、怪獣が侵入したのかとビックリしたこともある。それでも最初は許していた。 しかし奴らはここが安全だと知ると、カメムシなどは家具や書物の裏側など冬でも暖かなところを探し出して越冬して生殖をも繰り返して増殖を始めもした。それは私の許容限度を超える行為だった。放置しておけば、私の書斎はムシの館となってしまう。私の心は恐怖すら覚えた。 この瞬間に、私は真夏の殺戮者、真夏の虐殺者となった。 この夏にも、私は数百にも及ぶ命を虐げた。 私とムシたちとの間は、互いのテリトリーを守って同存するルールも協定も存在しない関係なのだ。 だから命を守ってやるより、命を虐げてしまう方が、容易い解決策となる。 私は真夏のキラーマン。私の前に現れるな。私だけの空間(と言っても、主として机回りだけの小