3年前の3月、春天皇賞と皐月賞のトライアル戦である阪神大賞典とスプリングSを控えて、そのときの私は、こんなことを振り返っていた。
まあ、こんな日もあったということだ。
まあ、こんな日もあったということだ。
<2013 3月 了>
気がつけば、早3月も半ばを過ぎた。
2年前の大地震と大津波、そして今も係った誰もが知らん顔して責任から逃げ回る原発事故。あの年は、まだ今頃は寒かった記憶がある。
2年経って、何かが変わったのかと考えても、何も変わってはいないようだ。
海に囲まれた地理的特性を持つ日本にとって、それは大きなアドバンテージであったはずなのに、茨城沖から、青森まで続く太平洋岸には、いまだ、新たにどんな国造りを為すのか、イメージプランさえ提示されてはいないようだ。
それもそうだろう。本来、地球規模の大自然に対しては、人間は無力なのだ。対症療法は考えられても、大自然克服などできはしない。人間は地球に間借りしているのに、いつの間にか増長して、大家面している喜劇が、復興の阻害要因であることに、もう目覚めるべきであるだろう。
思い起こせば、例えば雲仙の大噴火、大島三宅島の大噴火のとき、人々はただ逃げまどい、見守るだけだった。その後の再建も、噴火を克服すべきプラニングはされなかった。地球の間借り人としての節度を守り、共存という優れた選択を為し得たのだった。
数百年に一度の大自然の驚異に備えるのは、おそらく防災対策が完璧に備わった息苦しい街に住むことなのではなく、何かが起こった時に、きちんと人々が自力で最悪を回避できる街並みを作り、人々の心を平時から啓蒙することなのだと、私は思う。それが安心なのであり、豊かな海岸線に例えば高さ50mの堤防を張り巡らすのは、茶番に過ぎない・・・。それよりも何よりも、専門的な関係者が「想定外」とほざく人為的な原発事故は、どんなに事故原因を隠蔽しようとも、根拠のない安全神話で人々を愚弄し続けてきたという意味において、救い難い罪深さが拭えやしない・・・。
などと、マジな振りして(でも振りはしていても本音です)この2年間を振り返っていたのは、理由がある。
2年前の大地震と大津波、そして今も係った誰もが知らん顔して責任から逃げ回る原発事故。あの年は、まだ今頃は寒かった記憶がある。
2年経って、何かが変わったのかと考えても、何も変わってはいないようだ。
海に囲まれた地理的特性を持つ日本にとって、それは大きなアドバンテージであったはずなのに、茨城沖から、青森まで続く太平洋岸には、いまだ、新たにどんな国造りを為すのか、イメージプランさえ提示されてはいないようだ。
それもそうだろう。本来、地球規模の大自然に対しては、人間は無力なのだ。対症療法は考えられても、大自然克服などできはしない。人間は地球に間借りしているのに、いつの間にか増長して、大家面している喜劇が、復興の阻害要因であることに、もう目覚めるべきであるだろう。
思い起こせば、例えば雲仙の大噴火、大島三宅島の大噴火のとき、人々はただ逃げまどい、見守るだけだった。その後の再建も、噴火を克服すべきプラニングはされなかった。地球の間借り人としての節度を守り、共存という優れた選択を為し得たのだった。
数百年に一度の大自然の驚異に備えるのは、おそらく防災対策が完璧に備わった息苦しい街に住むことなのではなく、何かが起こった時に、きちんと人々が自力で最悪を回避できる街並みを作り、人々の心を平時から啓蒙することなのだと、私は思う。それが安心なのであり、豊かな海岸線に例えば高さ50mの堤防を張り巡らすのは、茶番に過ぎない・・・。それよりも何よりも、専門的な関係者が「想定外」とほざく人為的な原発事故は、どんなに事故原因を隠蔽しようとも、根拠のない安全神話で人々を愚弄し続けてきたという意味において、救い難い罪深さが拭えやしない・・・。
などと、マジな振りして(でも振りはしていても本音です)この2年間を振り返っていたのは、理由がある。
あるいは、不謹慎な奴だと顰蹙を買うだろうが、今年も、そろそろ、私自身の大災害に見舞われようとしているので、そのための準備だったのだ。
世の中には「惚れたら最後」なんて言葉がある。そう、気を許して惚れこんだら、奈落の底まで一直線なのだ。
幸か不幸か、私は、人生のとある一瞬に、競馬という勝負に惚れこんでしまったのだ。生来の動物好きでもあり、また高校時代に乗馬を覚え、田舎の川沿いの土手道を、ギャロップですっ飛ばして駆けていた体験もある。
思い起こせば、乗馬を覚えたのは、母方の祖父の影響だった。明治生まれのこの男は、若い頃からの生粋の道楽者で、若い頃、役場にいっとき採用された時には、ハンチング帽をかぶり、颯爽と馬に乗って通ったなどという伝説がある。村長が歩いて来るというのにだ。
だから役場勤めは、3日坊主。長続きはしなかった。その後は、道楽一途。
その昔、競馬は、今のようにJRAと地全協の二つの全国組織が治める体制ではなく、地方のいろんな場所で草競馬が行われていた。大正から昭和初期の頃である。
シーズンになると馬主は、所有馬と調教師、乗り子(騎手)と馬丁(厩務員)らで一党を成して、賞金がかかる草競馬場を巡っていた。勿論、夜ともなれば巡る旅先で、毎日が芸者衆をあげての宴会騒ぎ。お金はいくらあっても足りはしない。当時何勝もした、フジヒメという名の、それなりに強い牝馬を抱えていたから、逆に大変だったらしい。
「兵糧尽きた。金送れ!」
「馬売って帰れ!」
祖父と祖母が、若い頃に電報で交わしたラブレターである。
その後、三河の大地震、大火事、戦争と祖父の道楽は萎んでいったが、一生宮仕えはせずに最後は囲碁を道楽にして昭和40年代まで生きた。
私が乗馬を覚えたのは、祖父の影響だった。いや、道楽者の真似をしようとしたわけではない。田舎に乗馬クラブができ始め、帰省した私は、興味を持って、一人で訪ねてみたのだ。
話をするうちに、幸運が舞い込んだ。
実は、祖父が一党を成して草競馬に戯れていたとき、馬丁として下働きに使われていたのが、まだ10代のひよっ子だったこの乗馬クラブのオーナーだった。10代の少年にも、祖父と度々同行した競馬の旅は思い出深いものだったのだろう。
祖父の名を伝えると、
「そうか・・○○さんの孫かぁ・・」
私は、この瞬間から、半額で馬に乗れることになった。最初は内股の筋肉痛に悩んだが、ひと夏で、乗馬クラブを抜け出して、すぐ傍の川沿いの土手道をギャロップで駆け抜けるまでになった・・・。
こんな体験が、やがて私を本格的な競馬に結びつけたのだ。
馬券からではなく、あの土手道を駆け抜けた爽快感が、広い競馬場でいかにも気持ち良さそうに馬を御す騎手たちの心に思いを馳せるようになっていたのである。
その結果が、良きにつけ悪しきにつけ、今なのだ。そして今年もまた、自分なりの春の闘いに挑もうとしている。暴風雨にさらされ、雷が落ちる結果にも対応しておかねばならない。
それが、生き抜く者の務めだろう。
で、さてどうするかということを、今日は書き残しておこうと思ったのだが、本音を晒す奇妙な出だしとなってしまった。
うーん、こんな日もあるのだ。
だから結論だけ記しておこう。
天皇賞を目指すゴールドシップ。阪神大賞典では、勝ったもののまだ肉体を持て余すようなモッサリとした印象があった。怪我さえしなければ、天皇賞では、もう一つ見違えるような、まくりの差し脚を決めるだろう。
皐月賞を目指すロゴタイプ。朝日杯よりも弾けていた。まだ良くなる印象を持った。折り合って先行し、そこから突き抜ける脚があるこの馬は、いかにも皐月賞向きで、この日は弟クリスチャン・デムーロで勝ったが、本番は、今や勝利の請負人である兄ミルコ・デムーロが騎乗するという。信じて良いだろう。
この日を迎えるために、初心に戻って、私は金曜の夜から、グリーンチャンネルの最終追い切りを録画して、心を集中しようと努めた。追い切りを冷静にチェックした私の、少しばかり買った馬券は、阪神大賞典が、ゴールドシップから、気配の良く見えたデスペラードとフォゲッタブルへの馬連2点。スプリングSは、ロゴタイプからタマモベストプレイ、マイネルホウオウ、マンボネフューへの馬連3点と、ロゴタイプ、タマモベストプレイの2頭軸からマイネルホウオウ、マンボネフューへの3連複2点。いろいろと考え抜いて、それを結論とした。
結果は?スミマセン、JRAのHPでお調べください。自慢話はしたくはないので。
とにかく、心を鎮めて、心眼を開くように集中すれば、想像を絶する勝負の荒波にも対処できる。勝負の女神は、迎え入れてくれる。それが私の大災害対策だと、改めてそんなことを確かめて、意を強くした週末だった・・・。
世の中には「惚れたら最後」なんて言葉がある。そう、気を許して惚れこんだら、奈落の底まで一直線なのだ。
幸か不幸か、私は、人生のとある一瞬に、競馬という勝負に惚れこんでしまったのだ。生来の動物好きでもあり、また高校時代に乗馬を覚え、田舎の川沿いの土手道を、ギャロップですっ飛ばして駆けていた体験もある。
思い起こせば、乗馬を覚えたのは、母方の祖父の影響だった。明治生まれのこの男は、若い頃からの生粋の道楽者で、若い頃、役場にいっとき採用された時には、ハンチング帽をかぶり、颯爽と馬に乗って通ったなどという伝説がある。村長が歩いて来るというのにだ。
だから役場勤めは、3日坊主。長続きはしなかった。その後は、道楽一途。
その昔、競馬は、今のようにJRAと地全協の二つの全国組織が治める体制ではなく、地方のいろんな場所で草競馬が行われていた。大正から昭和初期の頃である。
シーズンになると馬主は、所有馬と調教師、乗り子(騎手)と馬丁(厩務員)らで一党を成して、賞金がかかる草競馬場を巡っていた。勿論、夜ともなれば巡る旅先で、毎日が芸者衆をあげての宴会騒ぎ。お金はいくらあっても足りはしない。当時何勝もした、フジヒメという名の、それなりに強い牝馬を抱えていたから、逆に大変だったらしい。
「兵糧尽きた。金送れ!」
「馬売って帰れ!」
祖父と祖母が、若い頃に電報で交わしたラブレターである。
その後、三河の大地震、大火事、戦争と祖父の道楽は萎んでいったが、一生宮仕えはせずに最後は囲碁を道楽にして昭和40年代まで生きた。
私が乗馬を覚えたのは、祖父の影響だった。いや、道楽者の真似をしようとしたわけではない。田舎に乗馬クラブができ始め、帰省した私は、興味を持って、一人で訪ねてみたのだ。
話をするうちに、幸運が舞い込んだ。
実は、祖父が一党を成して草競馬に戯れていたとき、馬丁として下働きに使われていたのが、まだ10代のひよっ子だったこの乗馬クラブのオーナーだった。10代の少年にも、祖父と度々同行した競馬の旅は思い出深いものだったのだろう。
祖父の名を伝えると、
「そうか・・○○さんの孫かぁ・・」
私は、この瞬間から、半額で馬に乗れることになった。最初は内股の筋肉痛に悩んだが、ひと夏で、乗馬クラブを抜け出して、すぐ傍の川沿いの土手道をギャロップで駆け抜けるまでになった・・・。
こんな体験が、やがて私を本格的な競馬に結びつけたのだ。
馬券からではなく、あの土手道を駆け抜けた爽快感が、広い競馬場でいかにも気持ち良さそうに馬を御す騎手たちの心に思いを馳せるようになっていたのである。
その結果が、良きにつけ悪しきにつけ、今なのだ。そして今年もまた、自分なりの春の闘いに挑もうとしている。暴風雨にさらされ、雷が落ちる結果にも対応しておかねばならない。
それが、生き抜く者の務めだろう。
で、さてどうするかということを、今日は書き残しておこうと思ったのだが、本音を晒す奇妙な出だしとなってしまった。
うーん、こんな日もあるのだ。
だから結論だけ記しておこう。
天皇賞を目指すゴールドシップ。阪神大賞典では、勝ったもののまだ肉体を持て余すようなモッサリとした印象があった。怪我さえしなければ、天皇賞では、もう一つ見違えるような、まくりの差し脚を決めるだろう。
皐月賞を目指すロゴタイプ。朝日杯よりも弾けていた。まだ良くなる印象を持った。折り合って先行し、そこから突き抜ける脚があるこの馬は、いかにも皐月賞向きで、この日は弟クリスチャン・デムーロで勝ったが、本番は、今や勝利の請負人である兄ミルコ・デムーロが騎乗するという。信じて良いだろう。
この日を迎えるために、初心に戻って、私は金曜の夜から、グリーンチャンネルの最終追い切りを録画して、心を集中しようと努めた。追い切りを冷静にチェックした私の、少しばかり買った馬券は、阪神大賞典が、ゴールドシップから、気配の良く見えたデスペラードとフォゲッタブルへの馬連2点。スプリングSは、ロゴタイプからタマモベストプレイ、マイネルホウオウ、マンボネフューへの馬連3点と、ロゴタイプ、タマモベストプレイの2頭軸からマイネルホウオウ、マンボネフューへの3連複2点。いろいろと考え抜いて、それを結論とした。
結果は?スミマセン、JRAのHPでお調べください。自慢話はしたくはないので。
とにかく、心を鎮めて、心眼を開くように集中すれば、想像を絶する勝負の荒波にも対処できる。勝負の女神は、迎え入れてくれる。それが私の大災害対策だと、改めてそんなことを確かめて、意を強くした週末だった・・・。
コメント
コメントを投稿