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シンデレラの門限は午前0時だが・・・

3年前の1月に「中野廣の会」という名の飲み会が始まった。優駿4代目編集長だった故福田喜久男が遺した集いだった。その第1回と第2回の私の様子を、再掲しておこう。今となっては、いい経験だったというしかないないのだが・・・。


                <第1回中野廣の会 2013 1月 了>

1月22日。夕刻6時。

1ヶ月以上前から、この日の懇親会の予定は決まっていた。

昨年の「福田喜久男を偲ぶ会」の中心メンバーが再び集って、お酒を友に様々に語り合う会合だった。

今は、なかなかこんな集いはない。だからこそ必要だと、皆が考えたのである。

きっかけは、故福田喜久男の昔からの知人でもあった廣子さんが、年明けに中野で居酒屋「廣」をオープンしたことだった。

ブロードウェイ近くに店はあり、開店の日には、80名もの人たちが集まったという。開店から2週間ほど過ぎれば、お客の流れも一通り収まってくるだろうからと、私たちは敢えてこの日を選んだということだ。

お店は、こじんまりとして、1階は8名ほどのカウンター席、2階はなんとぐるっとソファーが並んで、12名ほどがゆっくりと座れる個室となっていた。個室といっても、この部屋しかない訳だが・・・。

私たちは、集った9名でこの個室を占有させてもらった。

剛毅な牛肉が大皿いっぱいに盛上げられて、和気藹々のしゃぶしゃぶパーティとなった。鍋奉行は、絵描き野口アキラが頭に汗を浮かべて勤め、作家吉川良はいつも通り楽しげに茶々を入れ、私は相槌を打ちながら煽る役割を努め上げた。

となれば、当然、座はどんどんと盛り上がっていく。某組織の幹部職員や、その卒業生たちも負けてはいない。S氏の人生におけるいつも本気の恋物語などは、その度し難さに格好の笑い話となった。顔に似合わず吉川良の一途な純愛拉致結婚が遡上に上がったときは、本人が何とも言えぬ照れた表情を見せた。

こうなってくると、終電に間に合わせて途中で席を立つわけにはいかない。

私は居直った。

結局、会が直線いっきの差し足を決めてゴールインしたのは、午後10時半過ぎ。皆さんは無事に帰宅できる時間だったが、もう秩父に帰る私はダメだった。

10時半池袋が、最終なのだ。西武池袋線の所沢から飯能までは帰れても、そこから先、単線の西武秩父線が動いてない。飯能からタクシーに乗ると、1万8千円以上かかるから、それも馬鹿らしい。

与野に帰る野口アキラと、とにかく池袋まで一緒に帰った。電車の中で、多少酔った野口アキラが「こうなったら自分も池袋に泊まるから、もう少し飲もうか」などと言う。

「じゃあ、池袋に着いたらホテルに連絡してみるから」と答える私。二人ともこんなときに泊まるホテルのメンバー会員なのだ。

しかし、しかしである。電話を入れると、何と定宿のホテルは満室だったのだ。いっきに酔いが冷め、顔から血の気が失せた。

まだ何とか帰れる野口アキラに、こうなったら帰ったほうがいいと進め、私は一人で池袋駅から歩き始めた。とにかく何とかしなければいけない。だんだんと体が冷えてくる。そう言えば、私はここ2ヶ月の間、有馬記念の日を除いて、東京に出てきてはいなかったのだ。風邪をぶり返すと、治るまでにまた1ヶ月以上も掛かってしまう。最近ようやくしんどさが取れたばかりなのだから、それが怖い。

簡単に済ますなら、カプセルホテルか。でも他人の鼾が聞こえてくると眠れない。お金を払って眠れないのは嫌だ。

と、小一時間ばかり、冷え冷えとした深夜の池袋を徘徊した。

そこで目にしたのは、一軒のラブホテルの看板。

「宿泊4990円。お一人でもどうぞ」

ええい!!とばかり、私は迷わずここに決めた。寒くてとにかく横になりたかったのだ。それに値段も納得だったし・・。

フロントで前金を払っていると、エレベーターの扉が開いて、おそらく夜の戦いを終えたばかりのカップルが満足そうに鍵を返して去っていった。

ちぇッ、と思わず口ずさんでしまうところは、まだ私が男である証明なのか?

用意された部屋は6階の1号室だった。部屋に入ると、広いベッドが私を迎えてくれた。そうだ、私はたった一人でこの広いベッドを占有して、朝まで過ごすのだ。ああ、何と虚しいことか・・。

広々としたベッドと冷たい布団・・。だんだんと哀しくなってもくる。頭の向こうには、ご丁寧にもサービス品のコンドームとティッシュが並んでいる。始発の特急ですぐに家に帰るぞ!と、無性に叫びたくなってきた。

この夜、私は深い眠りを得られなかった。何となく落ち着かず、広いベッドで小さくなっていた。そう思う。

やはり、こんなホテルは二人で使うのが正しい道なのだ。ああ・・・。

結局、うつらうつらしただけで、朝6時半の始発のレッドアローに乗って、速やかに家に帰ったのだが、寒気に襲われた私は、ショットグラスに3杯のウィスキーを煽って、そのまま、寝なれた私のベッドで昏々と眠り続けたのだった。目が覚めたのは、もう夜だった。

もう嫌だ、こんな生活。

でも、22日の会は、これから春夏秋冬には必ず、ついでに気の向いた時に適宜開くと決まった。多分これに懲りずに参加してしまうだろう。次からは、電車に間に合うように席を立つか、そうでなければ必ず定宿を予約してから参加しよう。そう決めた。だって一人でラブホテルに泊まるのは、本当に哀しいものがあるから・・・。




この4か月後に第2回が開かれた。


                  <第2回中野の会 2013 5月 了

5月7日。2か月前から予定されていた宴の日。

午後6時から、中野の「廣」。前回のように2Fのソファルームを占有して、12人の要人(?)が揃った。

今回のスペシャルゲストは、「文芸春秋」の副編集長F。現在の「優駿」編集長Yも参加していたし、吉川良、野口アキラ、私と、カメラマンAに、保土ヶ谷の怪老Y、そしてある機関誌「○○」を通した某組織のOB並びに現役が揃えば、自然と話は盛り上がる。酒が入ると勢いは止まらない。だが人が揃えば、やはり文殊の知恵となる。積年の思いを吐き出して、心を鎮めることもできるし、人が今何を見つめているかも伝わってくる。大袈裟に言えば、日本の文化状況の縮図の場となるのだ。この刺激が良い。

裏で、意図的なデマを流している不埒な奴がいれば、その名前と発言も浮かび上がってくる。信頼できる仲間と集うことは、どの時代にあっても大事なことなのだ。だって、人間は、人の間で生きているのだから。

私は、足柄山の金太郎の話を口にしたし、吉川良は15歳で書いたシナリオ「北斎」が勅使河原宏によって当時映像化された思い出話もしたし、野口アキラは日本の現在から未来を嘆いた。来年は、JRA発足60周年となり、「文芸春秋」と「優駿」のコラボレーションで何かできないかも話題となった。

座はどんどん盛り上がっていき、酒は大量消費されてもいたが、午後10時前に、私は残念ながら席を立った。シンデレラの門限は午前0時だが、私の門限は、午後10時半の池袋発のレッドアローなのだ。

前回1月の宴の後での、私の悲惨な夜のことは、もうみんな知っていたから、大人の対応で誰も執拗には引き止めなかった。ちょっと残念な気もするのだが・・。でも今宵、私はシンデレラ・・。

この宴が始まり、何とか続いているのは、昨年夏に亡くなった「優駿」3代目編集長福田喜久男の残した遺産である。そう言えば、次の宴が開かれるのは、おそらく彼の命日近くになるだろう。そろそろ、あの世を抜け出して、こっちに遊びに来てもいいよと、声を掛けてみようかと思っている。

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