スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

6月, 2016の投稿を表示しています

漆かぶれ その②

その後2年間は、幸いにもかぶれることはなかったのですが、忘れた頃にまた私は、漆かぶれに見舞われてしまったのです。このときは、少しひどい事態になって苦しみました。 物事は、いつのときも甘く考えてはいけないのです・・・。       <2013 11月 了> ちょっと困った事態が起こりました。まあ、自業自得なんですが・・。 金曜の午後、少し時間を見つけて、生漆を使ったある実験をしてみたのです。前夜、天啓のような閃きがあったので、これはやるしかないなと思い、以前に買ってあった生漆を持ち出しました。土曜は早朝から深夜まで、一日中出かけなければならず、このタイミングしかなかったのです。 これまで、私は漆を触ってかぶれたことはありませんでした。家族に症状が現れても、私には何も起こらず、運良くかぶれない体質が備わっているんだと信じていましたから、素手で生漆を触って大丈夫と妙な自信さえ持っていたのです。 でも過信でしかありませんでした。 漆を扱っている間に、無意識のうちに、顔を掻いたり、さすったりしてしまったのでしょう。作業を終えたときには、念のため、手先をオリーブオイルで洗い(漆は油分で溶けますので)、しっかり石鹸で手を洗ったんですが・・。 変化は土曜の午後に起こりました。外出先で何となく顔の異変を感じたのです。 両頬から鼻の下にかけて、変なツッパリ感が生まれ、モゾモゾとした感覚から始まりました。瞼にも腫れぼったさがあります。指先で触ってみると、月面の荒野のようなゴワゴワとした肌になって、少し赤味を帯びて火照っています。でもそのときはまだ、何かおかしいな、どうしたんだろうとしか思いませんでした。なにせかぶれないという自信があったのですから。 ただ火照りと、フラッとするような立ち眩みが起こっていました。それでも今日は疲れていて体調が悪いとしか思えません。 帰宅した深夜にシャワーに入り、顔を洗いながら触ってみると、やはり月面荒野のような状態でした。寝酒にウィスキーをショットグラスで3・4杯あおると、何とか眠りについたのです。 目覚めた日曜の早朝から、遂に痒みが始まりました。あれっ?と思い、念のため副腎皮質ホルモン入りの軟膏を取り出して患部に塗ってみると、その瞬間から我慢できない激しい痒みとなりました。それでも早く治さなければと、

漆かぶれ その①

漆はすばらしい日本の伝統的な塗料であり、接着剤でもあります。木の保護コーティング剤にもなります。 かつて自らやってみたのですが、鉄瓶に開いた小さな穴など見事に埋めることさえできるのです。勿論、固まってしまえばそのまま火にかけて元通りに使えるのです。 しかしそんなすばらしい漆も、素人考えの甘さで使い方を間違えば・・・。 5年前に、私がしてしまった失敗談のことを想い出しました 。                  <2011 12月 了> 今、家族から顰蹙をかっています。 将棋駒に戯れていて、漆を少しばかり甘く見ていたのです。 私自身は、どうやら漆に耐性があるらしく何とも無かったのですが、先日漆に触れて、その手を洗わずにいたとき、たまたま連れ合いに背中を掻いてと頼まれ、その手で言われた箇所を掻いてやったんです。 すると翌日、連れ合いは背中が痒くてならないから、どうなっているか見てくれと言います。 で、確かめてみると、皮膚が赤く腫れ上がって広がり、まるで蕁麻疹が出たようになっていました。 まだ、漆が原因だとは少しも思わず、1日様子を見て、それでもダメなら医者に行ったらと、提案しました。 同じ日、息子が金の袋が痒いと、恥ずかしそうに言うんです。そう言えば、まだ完全には乾ききってはいない漆の書き駒を、大事にしろよと言いながらプレゼントしました。それを触って感触を確かめていた息子は、そのままトイレに行って、金の袋を触ったようです。 子供の頃、漆に触るとかぶれるよと、大人たちから言われたことがあります。でも今回は、駒作りの真似事をしたときも、私自身は漆が手についても何とも無かったので、最近の漆は大丈夫なんだと勝手に思い込んでいたんです。 でも、そうじゃなかったんです・・・ 漆に慣れていない敏感な肌は、やはりかぶれるんですね。私の肌は鈍感だったのでしょう。 その日以来、今日に至るまで、私は、厄介者として家族から顰蹙をかっています。 まさに原因者であるだけに、無抵抗です。罵詈雑言の文句に耐えるしかありません・・・ 皆さん、漆の取り扱いには気をつけてください。でないと、私のように疎外された存在になってしまいます。 漆を触ったら、手を洗いましょう。乾ききるまで待ちましょう。 間違っても、その手で金の袋は、お触りにな

2016宝塚記念~何と上り3F36秒8!おお想定外!!

土曜までの梅雨の雨の影響が残っていたとは言え、いったいこんな有力メンバーが揃ったG1戦の上り3F(600m)の計時タイムが36秒8もかかるなんて、誰が推理し得ただろうか? この1週間、私は、現実とはまるで別物の幻の宝塚記念を、まどろみの中で追っかけていたのかも知れない。 そう言い切ってしまえるだけの、想定外のホームストレッチの光景だった。 GCを見始めた午後1時25分。阪神競馬場では、本番宝塚記念と同じ距離の芝2200mの500万条件戦が行われた。オープン馬からすると3階級下の条件戦である。サトノエトワールが勝った決着タイムは、前半5F 63秒ほどのペースで進んで2分15秒1。上り3Fは35秒5だった。やや重発表の馬場だったが、昼頃からは少しづつ雨雲が晴れて陽が射すようになっていたから、この7Rの時点より、本番11Rには、力の必要な馬場であったとしても、もう少し回復することが見込まれた。だから私は、宝塚記念は、2分13秒を切るぐらいの決着タイムで、力がある馬たちはこれまでの実績通りに走り抜くだろうと、安心しながら2時間後の近未来を確かめていたのだった。これなら負けないと。 だが、あざ笑うかのように現実は、私の推理の網の目をすり抜けて、想定外の結末となったのである。 宝塚記念の週の始めから、私は「今回は実績ある強い馬が力を見せつけて勝つ」ことを期待して止まなかった。 だから、トライアル大阪杯で横山典弘がその手腕を見せつけて勝ったアンビシャスや、鳴尾記念で走り過ぎた印象のあるサトノブレスらには、少しも狙いの食指は動かなかった。技は1発勝負であって2番はないと確信を持っていたからだった。 おまけに雨の影響での渋り目の馬場が予想された。調子を戻しつつあった好きなタイプのトーホウジャッカルらもここで予想から消えた。ヤマカツエースを押さえておこうかとも考えたが、この馬には大外17番枠が嫌で消した。 残ったのは3頭だった。ドゥラメンテ、ラブリーデイ、キタサンブラック。人気にはなるだろうが、オッズを気にすれば邪念が入ることは長い経験で織り込み済みだから、いつものように強い馬は強いのだと自分自身に言い聞かせた。 この結論に至ると心は澄みやかになって、かえって強気が増してくるようだった。 このときも、いや今週ずっと、私は、安田記念であのモーリスでさえ海外遠征後の仕上げが難しか

参議院選挙の夏

一昨日、参議院選挙が告示された。7月10日投票だという。 2年前の衆議院選挙の後の流れを振り返ると、政治というのはかなり(権力を持つ者によって)恣意的な展開が為されるものだということが実感である。 数を得る為に卑劣なまでに手段を択ばず、それ故、数を得た者が独断専行する国となってしまったのが、おそらく今の日本の現実なのだろう。そこそこに優秀な官僚制度も、人事権を握られてしまえば無力化することまで明らかになってしまった。マスコミの萎縮とへつらいもより深く進み、3年経っても民の期待に応える成果もない明らかに失政の政策さえも、表立っては批判もされないのだ。素晴らしきかな日本の民主主義である。 今回から、18歳以上の若者にも参政権が認められた。新しい民主主義を考えるにはいい機会となる。 政治に対して、民主主義を守るために最低限必要なこと。それは、奴隷ではなく主権者である私たちにとって、たぶんたった一つの意志表示なのだと思う。 前回の国政選挙から今日までの数年間で、あなたは、幸福な生活ができましたか?飢えることなく暮らせましたか?笑い合いながら働ける場所はありますか? Yesなら現政権を支持すればいい。Noだったなら遠慮なく野党勢力に1票を投じればいいのだ。 我慢することはない。誰かに義理立てをすることもない。あなた自身や、あなたの家族を守るために、あなた自身がきちんと意志表示しておくことが大事なのだ。 あなたを守るためには、あなた自身の判断した意志表示と行動しか守り抜く術はないのだから。それが民主主義の基本である。 もしあなたが、「どうせ私の1票なんて無力なんだから」と、そう考えただけで、あなた自身の幸福の追求は、誰かも判らぬ他人任せになってしまうのだ。 民主主義においては、主権者である私たちは卑屈になることなく我儘を貫けばいい。1票欲しさに頭を下げるべきなのは、政治を託される者たちの義務でもあるのだから。 だから、みんなで、みんな揃って、7月10日には、YesでもNoであっても、我儘を言いに投票所に向かいましょう。 それが、あなたの生きるこの先数年間の日本を良くして、同時に何よりもあなた自身を幸せにする最初のステップになるんです。

東京オリンピック開催決定!!

東京オリンピックの開催が決定したのも3年前の夏だった。「おもてなし」と「アンダーコントロール」という嘘っぽさで決定を手に入れた所為なのか、ここ3年間は、デザイン盗用疑惑、裏金、聖火台のない競技場設計、どこまで膨らむかも判らぬでたらめ予算、止まらぬ原発被害・・・など挙げたら切りがないいい加減さが浮き彫りになっている。64Tokyo五輪のような挙国一致のオリンピック開催は、もはや夢のまた夢なのかも知れない・・・。 朝早くに起きて、ニュースを見ようとTVのスウィッチを入れたら、ちょうど「TOKYO2020」のカードが示される瞬間だった。 その後のメディアの大騒ぎを見守る気にもなれなかったから、そこでそのままTVをoffにしてしまった・・。 56年振りのオリンピック開催国になったという感慨は特にない。 でも最終的にTOKYOに票を入れたIOC委員の投票理由だけは聞いてみたいと思った。 まさか金で買われた1票ということではないだろう。となれば、彼らは、今の日本に、何を見て、何を期待して、世界の平和の祭典の舞台に選出したのか?正直言って解らない。 49年前の東京オリンピックのときは、戦後復興の証明とか、敗戦国から世界の一員へとか、平和への覚悟とか、当時様々なメッセージが込められてあったと思う。 だが、今回の彼らの選択は、正しく何かを見つめて出したものだったのだろうか? 再び東京大会ということで、狭い国土の中でさらに1極集中が進む現実。世界共有の財産である海に、2年半経ってもなし崩し的に放射能汚染水を垂れ流す厚顔と無責任。それなりの手当てがされているのか、あるいは絶望的な諦めなのか、自ら原発の難民、流浪の民となっても奇妙に保たれた沈黙、東北大震災そのものの復旧もまだまだ先が見えている訳でもない。汚染の広がりは、農や漁の安心をも奪い、将来未来を隠し閉ざしてしまってもいる。いつあなたの町の水や空気が奪われてしまうかも知れない不安感・・・。 7年後には、全てが収束し、安全と安心と、戦争への怖れのない平和なオリンピックが、天下り会社とゼネコンと広告代理店が主導する未来都市東京で開催される幸福感など、今朝の私には、正直言ってなかった。 まあ、祭典などというものは、あらゆる矛盾を包み隠して行われる場合が常なのだということは判っている。7年後が、その意味でも楽しみだと記

ロゴタイプと出会った3年前の夏。

 3年前の夏。山元トレセンに向かった私は、運良く休養中のロゴタイプに出会った。その夜には、再び美浦トレセンに入厩するというタイミングだったから、幸運中の幸運だったと言えなくもない。実に利発そうな顔をしていた。 <2013 9月 了> 9月8日。阪神と中山で、セントウルS、京成杯オータムハンデが行われ、中央の開催が戻ってきた。このままいっきに暮れの有馬記念まで、煌びやかなG1戦が続く競馬の季節が始まっていく。 スプリンターズSの前哨戦となったセントウルSは、大方の予想通り、ハクサンムーンとロードカナロアの他馬を突き放したマッチレースとなった。この日は2着に終わったが、今や世界のスプリンターであり同時にマイラーともなったロードカナロアはやはり強い。アクシデントさえなかったら、本番は圧勝するだろうなと確信して日曜日が過ぎた。 その2日後の昨日、山元トレセンに向かった。 その工藤厩舎。中央入口の右側の馬房に、あの馬がいた。 ロゴタイプ。朝日杯を勝った2歳チャンピオン牡馬であり、皐月賞馬である。 今でも私は、ダービーも力負けではないと信じているし、復帰初戦の札幌記念も大雨の洋芝の不良馬場に最大の武器である切れ味を封殺されてしまった不運の結果だと思っている。 身近で見ると、実に凛々しく利発そうな眼が印象的なナイスガイだった。地面からおいしそうな草をむしり取って与え、ついでに鼻面やあごの下を撫でてやると、嫌がるそぶりも見せずにおとなしくしていた。 あの気迫の瞬発力が、いったいこの馬のどこに潜んでいるのかと不思議に思えるほどだった。 聞けば、脚下などに少しの異常もなく、この日の夜、馬運車に乗って美浦に入厩するという。私は運が良かったのだろう、入厩直前に会えたのだから。 デットーリの会心の騎乗でJCを勝ったシングスピールから、長く応援したローエングリンを経て誕生したロゴタイプ。京成杯オータムハンデで3着を確保したゴットフリートと共に関心を抱かざるを得ない存在だ。 秋天皇賞を最大の目標にしている。間に合えば毎日王冠を挟む予定もあると聞いた。 うん、楽しみだ。この魅力的な顔を見てしまったら、もう虜となるしかないだろう・・・。                   ☆残念ながらロゴタイプは、美浦入厩し調教を重ね始めた途端に、いまだ不良馬場となった函館での札幌記念の肉体

2016  何となく気ぜわしい梅雨時の6月に

安田記念を終えてからというもの、何となく気ぜわしい日が続いている。 妙に時間の流れが変わってきたようなのだ。 実は、ダービーを終えた日から、ちょっと自分を具体的に変えようかと、無精ひげをそのまま伸ばしっ放しにしてみた。とりわけ深い理由があった訳ではなく、ただただ気分のままにだった。 2週間も経つと、約1㎝ほどに伸びてきた。イメージとしては、チヤリオ君の火野正平や散歩の高田純次やメジャー3000本安打に挑むイチローのひげだったが、彼らと違って私がやると、どうも精悍な野性味というよりは、笑いの種となってしまうのが、まあ、悔しいと言えば悔しいのだが・・・。それも織り込み済みである。 無精ひげのように見えるが、だんだん伸びてくると、微妙に剃刀を当てて整えてやる必要もあって、結構気を遣う。もみあげから顎にかけての部分や、下唇の下は、鏡を見ながら手を入れるのだ。 ただ先週末に、鼻ひげが唇を動かすたびに、フニャフニャ、モニャモニャと鼻にあたるようになってくすぐったく、我慢できずに剃り落としてしまったから、今は顎ひげだけになっている。顎に手をやって、親指と人差し指でひげをはさむ仕種が癖にもなってきた。 馬子にも衣裳なんて言葉があるが、ひげの装いで、知らぬ間にだんだんと私自身の雰囲気も変わってきたようだ。そうなると私を取り巻く流れも、これまでとは少しづつ変わってきた気がする。日々出会う人たちの対応も、危ない奴かもと見抜かれてか妙に優しく変わってきたし、私自身もひげに合わせて、ゆっくりと話すようにもなった。ほんの少しづつの変化の兆しが、気がつくと大きな変化となっているような気がしてならない。 ひげ伸ばしが続いた最大の理由は、安田記念からのゲン担ぎだったというのが本音だが、いいリズムは保たれているのが不思議だ。 6月11日(土)は、東京競馬場で「本村会」(私たちの間では、狂ってみよう会と囁かれている)で、ダービールーム招待が催されたが、この日は、堅い本命サイドの結果と荒れれば大万馬券という流れと、不思議に外国人騎手の不在もあって、私には変な競馬が続き、帰路定例の飲み会代を含めて散財したが、翌日疲れを取って挑んだマーメイドSを枠連で3点的中(馬連にしなかったのは前日の敗退が原因である)、そこで弾みをつけて本命サイドのエプソムCは、馬連1点で仕留め、原点に戻してホッとした。 その
やはり3年前の夏のこと。春に頂いて、そのままメダカの甕に入れて育てていた蓮の花が、咲いた。水の中でつぼみが育って伸びてきて、プックリと膨らみ切った翌日の朝にである。そして夕方にはまた花は閉じて、朝の訪れに合わせるように再び開いたのだった。面白い花だった・・・。 今も生きていて、毎年花を咲かせてくれている。メダカの餌の残りが蓮の花の養分になっているのだろうか?    <2013 8月 了>                          ふと気がつくと、去年生まれた和金とヒメダカのいる池(と言っても、これは大きな盥に水を溜めた簡易の池なのだが)で蓮の花が咲いていた。見事に咲き誇っている。白い花と赤い花があるようだが、この蓮は白いタイプだったようだ。 確か4月の終わりに、つれあいの知人が市内のお寺から分けていただいたものを、金魚やメダカと物々交換して、鉢に多めの土を足してこの池に置いたのだ。まだ茎が3本ほどで小さかったのだが、それなりに環境が良かったのか、あるいは炎暑の夏の気候が幸いしたのか、順調に育って、花を咲かせたのである。 蓮の花は、仏教では極楽に咲く花とされているようだが、国語辞典を開くと、極楽とは「安楽で心配のない身分や境遇」と記されている。とすれば、迷い惑いながらいまだ現世の荒波に揉まれて生きる私の元では、決して咲いてはいけない花なのに、どういう宿縁か花開いてしまったのだ。 まあ、いずれごくごく小さな幸せを味わえるかも知れない予兆であると、良い方に解釈しておくほかないか・・。 でもそれにしても、いささか優美で、しかし近づいてみればキリッと自己主張している花である。池に植えるときに感じたあの饐えたような泥臭い匂いからは、こんな花が咲くなんて想像がつかなかった。泥の澱みの中から伸びて、清楚に際立った花を開かせることこそが、あるいは極楽ということなのかも知れない。 いずれレンコンはどうするって?食べられませんよ、この花を見た後では・・・。

「あまちゃん」にハマっていた私~2013の夏

3年前の夏、朝のNHK連続ドラマに生まれて初めてハマってしまった。もう何年も前のことのように思えたのだが、振り返ってみるとわずか3年しか経っていなかった。うーん・・・何となく不思議な感じがする。 <2013 8月 了> ここのところ「あまちゃん」に嵌まっている。宮藤官九郎の脚本が、観る側の心の機微を捉えて面白い。上手いと言っても良い。 6月半ばまでは、それほど真剣に見ていなかったから、もう一つ自分の中で消化吸収できなかった。だからこの夏、1話から25話までを、無料動画で見直してみた。 するとどうだ。実に細かい配慮で、いたるところにドラマの伏線がさりげなく散りばめられているではないか。この作りなら、ゆいちゃん一家の崩壊も、いつでも夢をの橋幸男の登場も、あきちゃんの心の底にある体当たりで乗り越えなければいけなかったコンプレックスも、夏さんの強がりの裏にある寂しさや本当の優しさも、一切が自然と受け入れられるというものだ。一見漫画的な仕上げになってはいるが、その裏には、宮藤官九郎の緻密な計算が溢れていて、良質な連続ドラマとなっている。登場人物が、今ここにいることにも少しも無理はないのだ。 だからこそだろう。登場する役者たちが自分のポジションで安心して演技に戯れていて、それがさらにドラマに彩りを添えている。良い脚本と、良い演技が相乗効果となって、さらにドラマを楽しくさせているのである。役者が面白ければ、もっと面白くしようと演出のテンションだって上がるに決まっている。それがまた脚本をよくする力となる。いい意味の相乗効果に現場は包まれていくのだ。 朝7時半にBSで見終えると、すぐに次が見たくなってしまうのだから、私もクドカンマジックに嵌まってしまっているということなのだろう。1日に2度3度と見直してしまう日さえある。でもそれが心地いい。 山田太一、市川森一、倉本聰、中島丈博ら、それぞれタッチは違っても、彼らは皆それぞれの時代を鋭敏に察知して、良質なドラマを創り、生み出してきた。映像は脚本で決まるとも言われているが、なかなかそんな才能には出会えないものなのだ。大河ドラマだって、出来の悪い脚本なら視聴率は上がらないのは、その歴史が証明しているではないか。 「あまちゃん」の大成功は、逆に考えるなら、作り手にとっては実は怖ろしいことなのかも知れない。何となれば、知らず
こうして3年前を辿って行くと、元気なときには、少しでも丈夫になろうと、山を歩いてもいた。 右脚のマヒがきつくなると、バイクに替えて楽をしようとしていた。またもう一度挑戦しなければと思う今日この頃である。でなければ本当に歩けなくなってしまうかも知れないという不安はいつもあるのだ。止むを得ないのだが・・・。 ここ2か月、雨が降らない限り、朝早くに愛犬の坂路調教をやっています。 最初の1か月は、私自身の調教も兼ねて、山道(と言っても舗装道ですが)を汗をかきながら歩いていました。5KM~7Kmほどでしょうか。 しかし慣れてくると犬は野性を取り戻すかのように元気いっぱいとなり、不完全な私の脚ではとても追いつけなくなって、ついにバイクでの坂路調教となりました。何せ山道ですから上り下りがあって、自転車だと下りは爽やかに進みますが、上りには使えません。ただ喘ぐだけですから。で、原付バイクの登場となりました。 そもそもせめてもの私自身の肉体鍛錬が目的だったのに、これでは筋違いなんです。ただ日が長くなった早朝の山道は、バイクでも気持ちがいいので、私は都合良く、肉体鍛錬から精神修養に発想の大転換をしてみました・・? 愛犬はバリバリに鍛えられて、筋肉も脚の握りも盛り上がり、怖い物なしで溌剌としています。 10日ほど前、庭に出た犬が吠え立てるので、何だろうと確かめてみると、猿の軍団が現れていました。若い猿たちは、電信柱から伸びる電線にぶら下がったり、倉庫の屋根でダンスをしたりして、犬の吠え声に動じないポーズをとっています。子猿がそれを頼もしげに見守っています。 10分ほど経った頃、猿の軍団は潮が引くように山の中に消えて行きました。 話はそれでは終わりませんでした。 家には、光電話と旧来の固定電話が引かれています。電話線が異なるのです。光電話やパソコンには何の不調もなかったので、あまり使わない固定電話の異常には気がつきませんでした。どうやら他からかけると呼び出し音は鳴るのに、受話器を取ってダイヤルをプッシュしても、少しもかからない状態になっていたのです。 そのことに気がつくまでに1週間かかってしまいました。 あれ!?どうもおかしい!!電話の反応がない。 そう気づいて、まず最初に考えたのは、電話機自体の故障でした。もう7年ほど使ってい

世にも不思議な・・・。

3年前のゴールデンウィークには、暇つぶしに、こんなことを考えていたようです。             <2013 5月 了> ゴールデンウィークともなると、私の住む地域は、東京近郊から自然に触れたいと願う人たちが集って、人も車も飽和状態になります。出歩く気がしなくなるのです。2・3年前の秋口には、町の公営グランドや市の公園、また民家の庭先にもクマが現われたと騒ぎになりました。民家では外で飼われていた犬が食べられてしまったようです。でも今は春。TVで広大な羊山の芝桜の景色が流れると、やはり人がドッと押し寄せます。たまりません。 で、家にこもって、愛犬と一緒にこんな会話に戯れました・・・。 あるとき、これまで多くの犯人を挙げた名刑事が呟きました。 「オレの決め台詞は、犯人はお前だ!!でも今回の老婆下着泥事件。犯人はオレだ!!焼きが回ったな・・」と。 あるとき、どこか遠くの大陸に、世界で一番高い山があることに気付いた山男がいました。 そして何と登ってしまったのです。見る物、聞く物が、初めてだけに新鮮でした。頂上に到着して、世界で一番高いことを味わって、無事に下山することもできました。自分だけの登山道を切り開いたと思ってしまいました。そうなると、人に黙ってはいられません。多くの人に教えようとしました。やがて興味を持った登山者たちが、我も我もと、その世界一の山に登ろうとしました。 でも、最初に上った山男は、このルートは、オレが最初に切り開いた道なんだ。オレの見つけた登山道を行くなら、お金を払って頂戴と、みんなに言うようになったのです。 何人かは払いましたが、払いたくない人もいました。山はみんなの山だろう、お前の山じゃないと思ったからです。最初はお金になりましたが、いつの間にか、みんなが、それぞれの道を切り開いてしまったのです。そうなったときから、山の道でお金もうけをしようとした山男は、誰からも愛されることなく嫌われて、やがて老醜を晒してどこかに消えて行ったそうです・・・。 アジアのどこかの大国で、世界最高の腕時計の模倣品を作ることに成功した模造犯がいました。いくつも作って大金持ちになりました。するとさすがにアジアの大国です。すぐにそれを真似して作る人たちが現れました。そのとき最初に作った模造犯は言ったそうです。オレのを真似するな。オレはこれの発明者
記念小冊子を想い出していたら、むしょうに第80回ダービーを振り返ってみたくなった。 これは3年前に綴った私自身の記録である。 photo by K.Ishiyama© <2013 5月 了> 部屋にいると少し蒸し暑さを覚えたが、外は適度に風がそよぎ、絶好のダービー日和となった。 東京競馬場には14万人の大観衆が集った。 15時40分にスターターの小旗が振られると、14万人の熱気はウォーッという地鳴りのような大きな雄叫びを響かせ、その中でファンファーレが鳴った。いつも以上の興奮が場内を支配していた。 15時45分過ぎ。大観衆は、ただ1頭芝コースを引き上げて来る武豊キズナに向かって、ユタカ!ユタカ!とコールを投げかけて、勝者を称えた。それは、ディープインパクト以来8年振り5回目のダービー制覇を成し遂げた武豊と、直線外からまるで父ディープインパクトのダービーを想い出させるかのように豪快に差し切ったキズナへの祝福の大声援だった。 微笑ましく第80回日本ダービーは終わった・・・。 ここで書き終えるのも、何か含むところがあるようで、そっけない。以下は、「私自身のダービー」ということで追記していこう。 武豊が、前走のような後方いっきの騎乗をすることは予想通りだった。上がり3F(600m)33秒5の脚力を、騎手武豊は最大の武器にして、その通り闘って勝利を引き寄せたということだろう。 レースの決着タイムは2分24秒3。9Rの1000万条件戦で2分25秒1だったから、それなりに時計の出る馬場での標準タイムだったろう。そう思えば、インでもっと粘る馬がいてもおかしくはなかった。とすれば、勝ち馬はともかく、80回ダービーのレヴェルは意外に低かったと、私には思えてならない。 その原因は?そう考えると、いくつかのことが言える。 私の見たかった幻のダービーを頭に描いてみよう。 M.デムーロの騎乗したロゴタイプのレースを見たかった。最後に伸びずに5着に終わったが、もうひとつ先に抜け出してその勢いでゴールを目指した皐月賞のミルコの騎乗がロゴタイプにとって理想だとすれば、弟C.デムーロのこの日の騎乗は物足りなかった。弾ける馬と共に、自らも弾ける騎乗が、桜花賞を勝って以来消えているような印象がある。心をもう一度入れ替えて欲しいと願う。 横山典弘の乗ったコディーノも見たかっ

第80回日本ダービー 記念小冊子

3年前のダービーを迎える直前、私も寄稿した小冊子が送られてきた。 あのとき、弾ける皐月賞馬ロゴタイプに大きな魅力を感じていた。それから今年の安田記念まで3年2ヶ月もの間、勝利から見放されるなどとは少しも思ってなかったのだ。ロゴタイプの復活を祝して、これを再録しておこう。       <2013 5月 了 > 今日の午後、こんな小冊子が送られてきました。 第80回日本ダービーを記念して、当日東京競馬場で配布されます。素晴らしいメモリアルグッズとなるでしょう。ファンサービスというのは、芸能人を呼ぶイヴェントより、こういう物こそが適しい。競馬をファンに啓蒙していくということは、こういうことの積み重ねなのですから。 たぶん無くなれば配布は終わりでしょうから、皆さん、なるべく早めに東京競馬場にお出かけ下さい。 (限定20000部だそうです。ダービーは例年入場者数が10万人を超えていますので) いろんな執筆者に交じって、何と私のページもあります。第51回無敗の日本ダービー馬シンボリルドルフのメモリアルです。 さて週末のダービー。昨年末の朝日杯以来、コディーノを応援するつもりでいましたが、騎手が横山典弘からC.ウィリアムズに交代となりました。ここに至って騎乗交代とは・・・。横山典が、苦労の果てに難しい馬をダービーで華麗に乗りこなして、そしてロゴタイプと一騎打ちというドラマを見てみたいと思っていたので、今は迷っています。おそらく週末まで、迷って悩むでしょう。 泣いても笑っても、次の日曜日が、競馬の祭典日本ダービーです。            皆々様、東京競馬場へと駆けつけましょう。 ☆第80回日本ダービーを制したのは、武豊キズナでした。

シンデレラの門限は午前0時だが・・・

3年前の1月に「中野廣の会」という名の飲み会が始まった。優駿4代目編集長だった故福田喜久男が遺した集いだった。その第1回と第2回の私の様子を、再掲しておこう。今となっては、いい経験だったというしかないないのだが・・・。                 <第1回中野廣の会 2013 1月 了> 1月22日。夕刻6時。 1ヶ月以上前から、この日の懇親会の予定は決まっていた。 昨年の「福田喜久男を偲ぶ会」の中心メンバーが再び集って、お酒を友に様々に語り合う会合だった。 今は、なかなかこんな集いはない。だからこそ必要だと、皆が考えたのである。 きっかけは、故福田喜久男の昔からの知人でもあった廣子さんが、年明けに中野で居酒屋「廣」をオープンしたことだった。 ブロードウェイ近くに店はあり、開店の日には、80名もの人たちが集まったという。開店から2週間ほど過ぎれば、お客の流れも一通り収まってくるだろうからと、私たちは敢えてこの日を選んだということだ。 お店は、こじんまりとして、1階は8名ほどのカウンター席、2階はなんとぐるっとソファーが並んで、12名ほどがゆっくりと座れる個室となっていた。個室といっても、この部屋しかない訳だが・・・。 私たちは、集った9名でこの個室を占有させてもらった。 剛毅な牛肉が大皿いっぱいに盛上げられて、和気藹々のしゃぶしゃぶパーティとなった。鍋奉行は、絵描き野口アキラが頭に汗を浮かべて勤め、作家吉川良はいつも通り楽しげに茶々を入れ、私は相槌を打ちながら煽る役割を努め上げた。 となれば、当然、座はどんどんと盛り上がっていく。某組織の幹部職員や、その卒業生たちも負けてはいない。S氏の人生におけるいつも本気の恋物語などは、その度し難さに格好の笑い話となった。顔に似合わず吉川良の一途な純愛拉致結婚が遡上に上がったときは、本人が何とも言えぬ照れた表情を見せた。 こうなってくると、終電に間に合わせて途中で席を立つわけにはいかない。 私は居直った。 結局、会が直線いっきの差し足を決めてゴールインしたのは、午後10時半過ぎ。皆さんは無事に帰宅できる時間だったが、もう秩父に帰る私はダメだった。 10時半池袋が、最終なのだ。西武池袋線の所沢から飯能までは帰れても、そこから先、単線の西武秩父線が動いてない。飯能からタクシーに乗ると、1万8千円以上かかるから、

経験のメガネ

3年前、こんなことを考えていたことがある。人は、考えて、考えて、失敗を重ねながら成長するものだと、改めて、そう思う今日この頃だ。 <2013 4月 了> どうも人間というのは、自分自身の経験の眼鏡が離せないものらしい。 若いときは、それでももっと何かがあるかも知れないと、まだ謙虚だが、老いた後はそれはあるいは老醜であり陋習と言えるのかも知れない。 物事は、最初の段階では、習うより慣れよとされる。そのこと自体は素晴らしいことだが、慣れた後に、それを絶対なものとしてそこから先の創意工夫を忘れると、所謂常識のダークサイドに入り込んでしまうことがある。それが恐ろしい。 昔からそれぞれのジャンルで、専門職の言い伝えというものがある。それはそれで参考にすべき含蓄のある言葉なのだが、その言い伝えが生まれた時代背景、その時代の文化水準、科学技術などを無視して絶対視すると、おかしな常識がそのまま語り続けられてしまうのではないだろうか。 例えば、最近、ある盛上げ駒師からいい言葉を聞いた。 「昔から漆は生きていると言われているんです。確かにそうです。だから湿気の多い梅雨の時期や、気温の低い冬場は、盛上げには向かないと言われてきました。やはり気温や湿気のいい春や秋が盛上げ作業にはいいんです。駒師になった頃、私も漆には悩まされましたよ。でも、ある時ふと思い当ったんです。それなら今を春や秋にしてしまえば良いじゃないかと。昔は無理でしたが、現在ならそれが自宅で可能ですからね」 つまり活きた漆のやんちゃに合わせるのではなく、周りの環境を漆のために整えてしまうという発想こそが、常識にとらわれない態度なのである。或いは、漆を使うとは言え、小さな将棋駒だから可能な方法なのかも知れないのだが。 常識には、立ち止まって考えると、常識の不条理が支配していることがあるのだ。多くの人たちが言われるままの常識に疑問を持たず、そういうものかと受け入れている場合が多いし、先人もまた言われたままをさらに言い伝えてしまうことも多い。 確かに新しい工夫というのは、実際にやってみて、成功の証明が必要である。やってみてダメならまた考えを改めて、再度新しい創意工夫に挑めばいい。もしOKなら、大いなる進歩となっていく。何か不都合があるなら、当然もうその兆しが表れていても不思議はないから

オタマジャクシとメダカと珍客?

裏庭の小さな池に、毎年蛙が卵を産みに来る。3月の終わり頃から、遅くても4月中のことだ。 もう何年も春の恒例行事になっているから、この池を故郷にする蛙なのだろう。ただ生まれて無事に巣立った蛙たちだが、翌年少し大きくなって帰って来るのは、何百匹の中でほんの数匹。自然の中で生きながらえるのは、奇跡的なことだと教えられる。 今年のオタマジャクシもこんなに大きくなった。   池の中の岩に積もったヌルヌルした苔や汚泥などをきれいに食べて、掃除もしてくれるので、役に立ってくれてもいる。ただここ2・3年、生む卵の量が何故か多くて、気を許すと酸欠状態に近くなるので困ってもいる。去年などは、この時期、同居していた20cmを超えようかという金魚たちが、酸欠状態に見舞われて死んでしまったほどなのだ。20匹ほどいたのに生き残ったのは3匹。だから今年は、オタマジャクシが孵化した瞬間に別場所に移して、メダカと同居させた。 そう言えば、今年生まれたメダカの子供たちも順調に育っている。  産卵期に雌のメダカは尾びれの付け根あたりに、卵をまとわりつけるようになるが、それはすでに受精卵なので、網ですくって傷つけないように卵を取って別に用意した専用の盥や器の中に移しておくと、数日後には次々に孵化してくる。後は、適量のメダカの餌を指先で磨り潰して与えてやればいい。卵から接していると、それなりに愛着さえ湧いてくるから不思議だ。 4月に生まれたオタマジャクシは、だいたい6月下旬辺りの満月の夜に巣立っていく。これまでの経験からしても、何故か満月の夜なのだ。彼らにとってDNAに刻まれた習性なのかも知れない。 5月の下旬頃になると、だんだんと大きくなってきたオタマジャクシを目ざとく見つけて、池には珍客が現れる。 この珍客に慣れないときは、びっくりして心臓音もドキドキと高まったが、何度も見て慣れてくると、この珍客が決して自ら人間を攻撃してくることはないと知って、それほど驚くことはなくなった。とは言え、池に近づくときは、それなりに慎重にはなるのだが・・・。 今年は、3匹の珍客である。写真は通い続けてもう5年になる珍客。以前に少し突っついたら、池に飛び込んで棒に変身した愛すべき珍客だ。(11年10月のブログを参照してください。この子の凄さが判りますから)色合いが、薄い茶色で特徴的なので、同じ相
ここしばらくの間、もう5年ほどになるだろうか、山に餌が少なくなる晩秋11月から春4月まで、私は山の鳥たちと食パンの関係を結んでいる。最初のきっかけは、ヒヨドリが訴えるように寄ってきて、大きな泣き声でピヨピヨと話しかけられたことに始まった。今では、私が合図の口笛を吹けば、どこやらから飛んでくるようにもなった。つれあいは、1日遅れで半額になった食パンをスーパーマーケットで探してくるのが役目である。贅沢な山の遊びと考えられなくもない。なかなか、そんな戯れはできないからだ。            <2013 3月 了>            もう3年続いている。 秋から春までの、山に餌が少なくなっている間、朝夕に2枚づつの食パンを撒いてやることが。 今年の冬は、特に餌が少なかったのか、いつの間にか多くの種類の小鳥たちが集まってくるようになった。 ヒヨドリ以外種類と呼び名が判らなかったので、おはようとか、早く食べなさいとか語りかけるだけで、ずっと気になってはいた。 今朝、思い立って「日本野鳥の会」のHPを開いてみると、さすがだった。図鑑のように鳥たちの写真が並んで整理されていたのである。 さっそく姿形から選んでみた。結構集まって来ているんだと改めて知らされた。 (以下は野鳥の会HPからの写真である) ヒヨドリ     コガラ    メジロ    ウグイス    キジバト   シメ ペアで来る鳥もいるし、まだ独り身なのか、単独で来る鳥もいる。 今のところ競い合って食べてはいるが、餌場の覇権を主張する存在はなく、平和なバランスが保たれている。いいことだ。 ただ最近、鳥たちが賑やかに集っているのを、山のカラスの偵察部隊に気づかれてしまった。昼間、時折一羽が興味深げに偵察している。どうやら口笛の合図に意味あることまで察しているようだ。 たぶん、そこに餌を見つけたらその瞬間にカーカーと大声で仲間に知らせるのだろう。 さてどうするか? 山の片隅の小さな餌場に保たれていた平穏が、山のカラスの侵略部隊によって壊されようとしている。カラスにも生存権はある。しかし人道主義に基づいて餌場を保証しているのは、私なのだ。私は、腹を空かせた一羽のカラスが遠慮がちに空腹を満たすことまでは認めるが、集団的パワーでおいしいとこ取りを企むのは許せない。どんな理屈を振りかざされても、小鳥と私の、ようや

こんな日もあった

3年前の3月、春天皇賞と皐月賞のトライアル戦である阪神大賞典とスプリングSを控えて、そのときの私は、こんなことを振り返っていた。 まあ、こんな日もあったということだ。                       <2013 3月 了> 気がつけば、早3月も半ばを過ぎた。 2年前の大地震と大津波、そして今も係った誰もが知らん顔して責任から逃げ回る原発事故。あの年は、まだ今頃は寒かった記憶がある。 2年経って、何かが変わったのかと考えても、何も変わってはいないようだ。 海に囲まれた地理的特性を持つ日本にとって、それは大きなアドバンテージであったはずなのに、茨城沖から、青森まで続く太平洋岸には、いまだ、新たにどんな国造りを為すのか、イメージプランさえ提示されてはいないようだ。 それもそうだろう。本来、地球規模の大自然に対しては、人間は無力なのだ。対症療法は考えられても、大自然克服などできはしない。人間は地球に間借りしているのに、いつの間にか増長して、大家面している喜劇が、復興の阻害要因であることに、もう目覚めるべきであるだろう。 思い起こせば、例えば雲仙の大噴火、大島三宅島の大噴火のとき、人々はただ逃げまどい、見守るだけだった。その後の再建も、噴火を克服すべきプラニングはされなかった。地球の間借り人としての節度を守り、共存という優れた選択を為し得たのだった。 数百年に一度の大自然の驚異に備えるのは、おそらく防災対策が完璧に備わった息苦しい街に住むことなのではなく、何かが起こった時に、きちんと人々が自力で最悪を回避できる街並みを作り、人々の心を平時から啓蒙することなのだと、私は思う。それが安心なのであり、豊かな海岸線に例えば高さ50mの堤防を張り巡らすのは、茶番に過ぎない・・・。それよりも何よりも、専門的な関係者が「想定外」とほざく人為的な原発事故は、どんなに事故原因を隠蔽しようとも、根拠のない安全神話で人々を愚弄し続けてきたという意味において、救い難い罪深さが拭えやしない・・・。 などと、マジな振りして(でも振りはしていても本音です)この2年間を振り返っていたのは、理由がある。 あるいは、不謹慎な奴だと顰蹙を買うだろうが、今年も、そろそろ、私自身の大災害に見舞われようとしているので、そのための準備だったのだ。 世の中に

one more cup of coffee~くつろぎの時

  そう言えば、3年前にはこんな嬉しいこともあった。                             <2013 2月 了> 秩父の山深くに分け入って、最後に2000m級の山を越えると、そこは甲斐の国。裏富士が眺め渡せる富士(不死)の国だ。今は、国境いに雁坂峠を通過するトンネルが開通して、市内から甲府までは1時間半ほどで行ける。 関西圏に行くのもこのルートを通って甲府昭和から中央高速に入ると、京都までなら5時間だ。意外に近いのである。 その甲斐の国の東京よりの場所に都留市がある。そしてその町の都留文科大学の近くに店を開くのが、コーヒー店「バンカム都留」だ。おいしいコーヒーを飲める店として、評判が高い。 その理由は、店主中村操が創り上げた。一説によれば、コーヒーを研究するために、エチオピアやイエメンそして中南米まで足を運びもしたし、店を開く前には、借りた物置で焙煎の研究に明け暮れたなどという伝説もある。最高の癒しの一杯を、どうやって提供するかと、悪戦苦闘の前半生だったのかも知れない。しかしそれは、おいしいコーヒーとの評判となって結実した。 その「バンカム都留」のコーヒー豆を、昨年ブログを通して知り合ったこの地の学校の先生が、隠れた名品としてプレゼントしてくれたのである。 届いたのは、マンデリン200gとモカ200g。すでに包み紙の内側から、コーヒーの香りが漂っていた。 開けると、ピカピカに磨き上げられたように、光り輝くロースト豆が現れた。見るからに味わい深さが伝わってくる。 でもそのときは、残念ながらすぐには飲めなかった。私は、机の前で、結構な量のコーヒーを飲む。以前に何度も行ったアメリカ流に、最近は大きめのコーヒーメーカーで済ましていた。だから、以前に手に入れていたミルは、いつの間にか処分してしまっていたのだ。 そして3日後、何とか「バンカム都留」テーストを味わえる時が来た。 ゆっくりとお湯を注いで、豆が泡立つのを確かめながら、ドリップした。 最初の一杯は、マンデリン。スマトラ島のアラビカ種。何とも言えぬ強い香りが、嗅覚を刺激する。 一杯のコーヒーをいれることが、何となく儀式のような感じがしてくる。 労を惜しまず丁寧に手をかけることで、実は価値が自分の中で高まってくるのが判る。そう言えば、こんな感覚を忘れていたなと思う。 スィッチ、ポン!の

3年前の冬のまどろみ

     寒くて、寒くて、炬燵で丸まっていると、ふとまどろんでしまう事がありますよね。                  こんな私も、うとうとと睡魔に襲われ、まどろみの中で妄想の夢を見てしまったのです・・・。                 ☆       ☆      ☆                                                <2013 1月 了> さてさて、お立会い。 世の中に、巻菱湖の駒は数あれど、ここに並ぶは、そん所そこらにある菱湖チャンとは、ちょっと違う。 さて、お立会い。 暇とお足に余裕があるなら、さあさ、手にとって御覧なさいな。 手で触って、もみもみすれば、その差は歴然。お宅のカアチャンとは、格段の違いだよ、この菱湖ちゃんは。 それも3種3人だ。盛り上げ、彫埋め、彫駒と、そろいも揃った美人コンテスト。 これを逃しちゃ、男じゃないよ。 エッ、何遠慮してんのさ。ここは、御触りバーじゃないんだ。触ってみても、お足は要らねえ。安心して触ってよ。あっ、でもそこのあんたはダメ。指先が汚ねえじゃんか。ションベンした後、ちゃんと手を洗ったのかい?石鹸で手を洗って出直して来な。そいつは、ジェントルマンの嗜みじゃあねえのかい。 ほら、そこのあんた、涎を流しちゃいけねえよ。ハンカチ持ってるなら、まずは拭きなよ、爺ちゃんよぉ。 ほらほら、お立会い。知ってるかい?知らない?じゃあ、教えてやるけどな、将棋の駒にゃあ、漆で盛上げた盛上げ駒、漆で埋めた彫埋め駒、スパッと彫った彫駒と、3つの種類があるんだよ。 値段?あってないようなもんさ。皆が欲しがる良い物は、目ん玉が引っくり返り、ちん玉が縮み上がるほど高くなる。こりゃあ、資本主義の習いよ。でも誰も欲しがらなけりゃあ、二束の三文さあね。 世の中のいい女も、皆が手を出さなけりゃあ、バーゲンセールよ。 でもな、ここにあるのは、皆が欲しがる高級品。垂涎の的ってもんよ。 ほら、触って御覧よ。カチンカチンと、いい音が響くだろう。木なのによう。木は木でも黄楊の木だ。かの御蔵の島のよぉ。これは、仕上げがいいっていう証拠なの。ほら、指すとカチン、カチンと響くだろうが、いい音がよう。あんたも男なら解るだろ?カチンカチンが大事なのはよう。フ

3年前に襲われた奇病

                 そう言えば、3年前に、こんな奇病に襲われたこともありました。                                       生きた心地がしなかった記憶があります。 <2013 2月 了> 5日前に、妙な寒気を覚えて、早くに寝付いたのですが、それだけでは終わりませんでした。 ちょっと汚い話になりますが、お許しあれ。 翌日の早朝から、異常事態となりました。 腹の中のものが、まるで大洪水を起こしたかのように、濁り水の急降下。どこにこんなに水分を溜め込んでいたのかと不思議なほど、ドボドボと流れ落ちて来て止まりません。トイレから出て、またすぐに引き返す状態に見舞われ、顔からは血の気が失われ、フラフラになりながら、長く便器にしがみついているだけでした。 何が、自分の体の中で起こっているのか判らず、ただトイレに駆け込むだけでした。 先日まで新聞で騒がれていたノロウィルスの胃腸炎を疑いましたが、それは下痢の他に、吐き気と発熱が症状としてあるようで、悪い風邪のような気分と、みぞおち辺りのドーンという痛み、そして垂れ流し状態の下痢という私の症状が当てはまるのかどうかは確かではありません。 勿論、食欲など起こりようもなく、ベッドで横になっているか、トイレに駆け込んでいるか、どちらかしかありませんでした。 さらに不幸なことには、家から主治医の処までは、車で約20分かかります。こんな状態では、おそらく車に乗っている時間さえ、トイレが我慢できるとは思えません。こんな私でも、垂れ流しのまま医者に駆け込むには、まだ多少の自意識というか、見栄が邪魔をしました。 で、結局は、家にあるかつて処方された抗生物質と、風邪薬と、胃腸薬で、自己流に処方して、ひたすら休養しながら耐えていたのです。何度もトイレに駆け込んでいると、いかに洗浄便座でも、その微温湯でさえ、私の限度以上に酷使された出口を、ヒリヒリと傷みつけるようになります。ときに鏡でその傷を覗いてみようかとも思いましたが、荒れ果てた荒野となっているであろう肌を見つめる度胸もありませんでした。 3日間、こんな状態が続きました。固形物は食べられず、脱水症状が怖いので水分は意識的に取りましたが、それが何倍にも膨らんで超特急で出てくる感じでした。

2016 安田記念 オーッ!ロゴタイプ復活!!~東京芝1600m

終わってみれば、行った行ったの決着だったが、G1マイル戦の東京コースのホームストレッチは、さすがに長く感じられて、決して前残りの単純な結末とは思えなかった。 ゴールイン後に、「そうか、前を行った2頭で決まったのか・・」と、ようやく気づいたのだった。 思えば、私の安田記念は、ダービーデイの帰り道から始まっていた。競馬場から大レース後の定例の府中三松での飲み会に向かう途中に、文春の編集者Fから「次は安田記念ですね。良いメンバーが揃うようですよ」と言われ、そう言えばと、古馬マイラー路線の出走馬を思い浮かべて、「そうか。軸は世界のモーリスだし、相手は好きなイスラボニータとロゴタイプなら面白いんだけど・・」と軽口を叩いていたのだ。 ドバイで、おそらくはR.ムーアに全力で走らされてしまっただろうリアルスティールや、前走のトライアル京王杯SCを圧勝してしまったサトノアラジンには、何となく勝負気配のベクトルの下降が感じられて気乗りがしなかったし、何よりもサトノアラジンはその前のダービー卿チャレンジTで、斤量が1Kg重かったロゴタイプに追いつけずに負けていた。ならば、この日やはりダービーを勝てなかった蛯名正義の騎乗するイスラボニータや、田辺裕信の騎乗3戦目となるロゴタイプに食指が動いたのである。 それからの1週間は、その瞬間をただただ待っている身としては長かった。ひたすら静かにじっと時間の過ぎるのを、耐えるように待っていた気がする。 最終追い切りからパドックまでの時間が、特にいつもより長く感じられてならなかった。時間には、正確に刻まれる機械的な時間と、感情や意識が織りなす時間がある。当然、このふたつの時間は、感じ取る側の都合で長くなったり短くなったりするものなのだ。 でも、やがてそのときは来る。 土曜の夜に競馬新聞を買う。私は、「研究ニュース」を選んでいるが、この新聞は以前の「競馬研究」がリニューアルされたものだ。調教欄が見やすくて、私はずっと「競馬研究」の読者だったが、何よりも「競馬研究」はある種独特な知性を発揮している編集で特化していた面があったが、「研究ニュース」になってからは、この独特な要素が極力排除されて、普通の競馬専門紙になってしまっているのが残念に思えてならない。時流に合わせようとすると、予想における予想者の思想哲学も消えてしまうのに・・・。 と、ブツ