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恐竜の足跡

さてさてこれは何だろう? 台風12号が奇怪なコースで列島を逆走する前の、摂氏40度に迫る灼熱の日々が続いていたある日、初心者マークの大学生に「運転練習のためにドライブに付き合ってもらえないですか?」と頼まれて、思わず受けてしまったのだ。 どこに行こうかと考えて、この季節なら国道299号線を北上して御巣鷹山の麓の上野村まで行ってみようかということに決定した。ゆっくりと往復しても3時間の行程だ。以前から、この暑い季節に一度訪ねてみたいなとも思っていたからちょうど良かった。 初心者マークの山道運転での助手席同乗は、なかなかにスリル満点で、ずっと緊張感に満ち満ちていたが、何とか無事に上野村の「慰霊の園」に到着。手を合わせたモニュメントの前で、500人以上が犠牲となったJAL123便の衝撃を改めて想い起した。 「御巣鷹の尾根」とこれまでずっと報道されていたが、正確には「高天原山の尾根」が墜落現場だったようだ。500人もの犠牲者は「高天原」に召され、奇跡的に生きながらえた数人は「高天原」から遣わされた生還者と言える。そう思うと、何となく不思議な気持ちとなった。 その帰り道。ここで最初の写真の謎となる。上野村の隣は神流町。慎重に初心者マークが運転を続けると、ふと「恐竜の足跡」という看板を見つけ、何となく気になって車を止めてもらった。 降りて案内通りに探してみると、それは見上げるような崖岩で、「漣の岩」と命名されていた。 今から1億3千万年前の白亜紀に、この場所一帯は海と河口が交わる三角洲だったらしい。そしてこの場所を2足歩行の恐竜が歩いた痕跡が「漣の岩」に残り、それがやがて地殻変動によって隆起して、現在のような崖になったという。 1985(昭和60)年に、恐竜の足跡として学術的にも正式に認定された。 いやはや、それにしても1億年と言うような宇宙的時間を前にしたら、私のような凡人の、たかだか長くても人生100年の時間など、何の意味もない宇宙の微小なゴミほどの価値と言えるのかも知れない。そう思えてならなかった。 その日、途中で何度か両手を踏ん張って身を固める瞬間はあったものの、初心者マークのドライブは何とか無事に終了。この次もよろしくと頼まれたが、これで少しは上達するだろうと考えて、「うん、いつでもいいよ」と答えておいた。 たまに...

7月になった

ちょっと手をこまねいていると、知らず知らずのうちに、時間だけがたちまちにして過ぎていく。 いや、とりわけ引きこもってじっとしている訳ではないのだ。いろんな雑事野暮用が重なって、それらにかまけていると、気がつけば1か月があっと言う間に過ぎている感じだ。 深夜にワールドカップも見ているし、外の小池で大量に孵化したオタマジャクシにメダカの餌を補給してやってもいるし、ここ1年程は誰もいない時間を見計らって毎日のように山道で車を追いかけさせて愛犬を運動させてもいる。犬はまさにライザップ状態で、1か月に一度の歯磨きの効用もあり、もう11歳なのにバリバリの若さを誇っている。水替えをサボってランチュウが1匹突然死してしまった体験もした。汗まみれになって車のワックスがけもしたし、東京のユニコーンSの3連単と函館スプリントSの馬連で万馬券の連続的中も果たしもした。ユニコーンSでは田中勝春エングローサーがアタマ差の3着、函館スプリントSでは四位洋文ヒルノデイバローがハナ差の2着、共に騎手の手腕に期待しての狙い馬だったので、もうひと踏ん張りしてくれていたなら夢のような完全的中が実現していたのだったが・・・。 だから何もしていない訳ではなく、いつものようにやりたいことはやって、それなりに納得もしているのだが、何せ私にとっては肝心要の「書きたい衝動」が心の内から沸き起こってこないのだ。書きたいことは山ほどある。でもだからと言って書いてどうなる。そもそも書いてぜひとも読んでもらいたいあの人が目に浮かんでくる時代なのか?と考えると、答えがないのである・・・。 甘えなのかも知れない。おそらく甘えなのだろう。もし他者からそう指摘されたなら、そっと頷くだけだ。 がしかし、今月の下旬と来月の末までに、私自身のこれまでの生き方のけじめをつける2つの個人的な命題が、どうやら決着する流れもある。おそらくその瞬間から、私の冬眠状態も劇的に改善するのかも知れない。今はただそのときを待っているしかない。無駄に必死に動いてもアガキが増すだけだろうし、成るようにしか成らないのも世の習いだ。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の精神だ。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」も「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の精神も、現状の私には似つかわしいとは言えない。 だからいましばらくはおとなしくじ...

金魚を飼おう⑲~ランチュウの成長間もなく2年

今朝は1週間振りの水替え作業。 夏を前にして食欲旺盛で、やはり水の汚れは早くなる。稚魚から飼育を始めて来月でまる2年。落ち着いてからは、真冬にヒーターを設置することもなく室内気温そのままでほったらかしでも健康そのものだ。 明らかに大きくなっているのが判る。でも相撲取りのような貫禄は、2歳では早過ぎるのかまだまだだ。成長するときは、どうもバランス良く全体的に大きくなるのではなく、ときに長さが伸びて少し腹回りが締まり、ときに腹が膨らむとそのときは長さが伸びるのが停滞する。どうもそんな印象で、体は少しづつ大きくなっていくようだ。 この前種類を変えて買った市販のドライフードの質が、どうもイマイチだったことも影響しているかも知れない。 だからまた元に戻してみようかとも考えている。 いずれにせよこれからも水替え作業は、いい環境を与えてやるために続いていく。山の水だからからか、水道の蛇口を回して直接にその水を使っても、ちょうど消毒剤の塩素が消えていて、カルキ抜きをしなくてもそのまま使えるのは何よりである。 おそらく山の麓にある浄水場からの水道水は、長い距離を山登りしてくる間に配管の中で塩素成分を失くしてしまうからなのだろう。だからそのまま飲んでも自然水のようでおいしいし、水の中で生き抜く金魚たちにも幸せの源となる。清貧な山暮らしの中での、ごくごくささやかな贅沢と言えるのかも知れない。 そうか、私は水に関してはリッチマンなのか・・フーン、そうなのか・・・。いや待てよ。森の中で息づく木々たちが光合成で提供してくれる酸素もフレッシュで、空気も美味いと言えば美味い。それも考えようによっては大きな贅沢だ。 まあ、水と空気が提供してくれる部分くらいは、優雅に暮らすのもいいだろう。 でもね、人間て奴は、水と空気だけじゃ生きていけないから、それが問題なんだが・・・・。 ともあれ、私の4匹の金魚たちは元気であります。 ついでながら、腹に卵をつけた外のメダカたちの卵を取って、別の盥桶に移したところ、すぐに何匹ものメダカたちが孵化して成長して、今は元気に育ってもいます。この子たちは2018年産のヴィンテージになってくれるでしょう。 この夏は餌やりと水替えで忙しくなりそうです。

春G1後半戦~天皇賞からオークス・ダービーまで その①

昨日5月27日、11万8475人(午後3時現在)の大観衆を集めて、熱気ある大歓声の中、日本ダービーが催された。 騎手福永祐一の、父洋一が突然の落馬負傷引退のためにその手にできなかったダービー制覇達成のドラマに、集った大観衆の温かい大声援がターフを包み込んで3歳馬の頂点となる「祝祭の儀式」が終わった。来週からは、また再び2歳馬たちの新しい闘いが始まっていく・・・・。 4月29日。春天皇賞~京都・芝3200m。 昨秋の天皇賞(東京芝2000m)3着からの岩田レインボーラインの着実な成長振りからしても、勝負を賭けてくるのはこの馬だろうと、私には思えてならなかった。 予想通り2週目の最後の4コーナーを回ってからの岩田レインボーラインの、馬群の中を右斜めに縫うようにして強引大胆に突き抜けてきた迫力は、この馬の長距離における資質の高さと、騎乗する岩田康誠の馬の資質を最大限に引き出してやろうとする気迫の意志に満ち溢れていた。 しかし・・・。 ゴールインする寸前に(何度レースを見返してみても)、ガクンと体勢を崩しているのが見て取れた。レインボーラインは、自らの身体を犠牲的に捧げものにするかのように、極限の勝負に挑んでいたのだろう。命を懸けて勝負に挑んで、勝者の栄光を手中にしたが、はかなくも傷ついてしまったのである。これは競走馬にとっては宿命的に抱える現実なのだ。手をこまねいて何もしないよりも、身体を捧げて勝負に生きる。そのことがサラブレッドの孤高の姿を映し出すのである。はかなくも美しい競走馬の本質を、あまりにも見事に教えてくれるような激走だったと厳粛に認めるしかない。 岩田康誠がゴールイン後に下馬したとき、私は何故かかつてのダンスインザダークの菊花賞を想い起していた。ダンスインザダークもあの96年の菊花賞を鮮やかな瞬発力を示して勝ち切って、しかし競走生命を捧げてしまった馬だった・・・。 レインボーラインを軸にして相手に選んだのはクリンチャーだったが、騎乗者が武豊の直前の騎乗停止によって三浦皇成にチェンジしたこともあってか首+1/2差の3着で、私には玉砕の結末となったが、それはそれでしょうがないと認めざるを得なかった。いかに先行馬をゴールまで持たせるかというある種洗練された特有の技術で世界のボウマンと称される騎手が騎乗したとしても、何...

荒野に光を~また届いた3通のメール

冬の初めからずっと、次から次へとまるで誇るかのように花を咲かせ続けていたシクラメンも、気がつけば、どうやら一休みする季節になっています。 この1か月、私自身も季節外れの冬眠生活を送っていました。世の中を見渡せば、いろいろと思うことがあって、そのためかまるで気力が湧き起こらず、無理をしても空しいのでじっと精神的に引きこもっていたのです。(いや、毎週の競馬と囲碁将棋チャンネルは見ていましたが・・・) そんなとき気力の湧かない私に、3通のメールが届きました。 「流れが変わりました。 新たな潮が身体の周りをうねっています。今日を楽しみましたか?明日はもっと素晴らしいと信じられますか 精進あれ」 「 今日を楽しみましたか? 明日はもっと素晴らしいと信じられますか ? 」 「幸せとは? 心の平穏です。 何かまとわりつく異物感を、削り落とし、削り落として達する無我の境地なのです。 何かにこだわりつつ、同時に無我に達するアンビバランス。そのことを修行というのかも知れません」 そうです。どうでもいい、どうにでもなれと、閉じこもろうとする私自身を、もう一人の私が励まそうと送り届けたメールでした。 自分以外の誰かを頼れば弱みにもなります。でも自分で自分を励ますことができるなら、最高の治療薬ではないでしょうか。 自分を強くするのは、やはり自分しかありません。 かつて病に見舞われて苦しみ、大きな手術を受けなければならなかったとき、この辛さを癒せるのは、他者ではなく自分自身なんだと気づいてから、私はときおりもう一人の私になって、自分自身にメールを届けます。 曖昧模糊とした現実、漠として先の見えないこれからの未来への不安・・・。そんな時代のエアポケットにストーンと放り出された実感するときこそ、もう一人の私のメールは、これまでも私を支えてくれる大きな力となってきました。 さてさて今回のメールの効用は?それは、しばらく後の私自身の在り様が証明するでしょう。 効用があって欲しいと願っています・・・。

春G1前半戦(高松宮記念~大阪杯~桜花賞~中山GJ~皐月賞)

競馬のスケジュールは、日を追って瞬く間に進んでいく。気が緩んで少しさぼりがちだと、ちょっと前のレースも遠い過去のようになってしまう。 まあ、きちんきちんと書き残さなかった私自身に責任があるのだが・・・。と、ちょっとだけ反省して、記憶をたどって書き留めておこう。そんな作業が、いずれ近い将来、宝物の記録にもなるのだから。 3月25日。高松宮記念。中京・芝1200m。春のスプリンターチャンピオン決定戦だ。 私の中では、デムーロ・レッドファルクスが信頼に足る軸馬で、中心となるという見解に疑いはなかった。いつものように最終追い切りを確認もしたし、前走の阪急杯3着の追い込みも、本番前のトライアルとすれば充分に及第点で、高松宮記念に向けての準備態勢は完璧に整っていると信じた。で、相手に岩田レッツゴードンキ、川田ファインニードル、武豊ダンスディレクターの3頭を選んで、これでOKと信じて疑ってはいなかったのだが・・・。 何故か、レッドファルクスはゲートが開いても、いつものような軽快で迫力のある行き脚を少しも見せなかったのである。レースの絡む気迫を現わさず、今日はないなとスタート直後に諦めざるを得なかった。1着は川田ファインニードル、2着は岩田レッツゴードンキで、縦目を食らってしまった結果となった。 昨年12月に香港参戦して、年明け初戦がおよそ3か月後の阪急杯。となれば、結局はいわゆる2走ボケだったのだろう。そう思うしかない不可解な敗戦だった。 4月1日。大阪杯。阪神・芝2000m。 強い4歳馬を信じれば、ここは先週1番人気を背負って惨敗したデムーロが騎乗するスワーブリチャードを本命にするしかない。相手は、同じ4歳の皐月賞馬川田アルアインに、横山典ミッキースワローだが、趣味で池添ヤマカツエースを加えた。まだ完全復調にない戸崎サトノダイヤモンドをどう見るかに頭が痛かったが、考えすぎるのも面倒になってほんの少しだけ押さえておくことにした。 結果は、デムーロ・スワーブリチャードの危なげない完勝。2着を確保したのが、4頭出しの池江厩舎の人気薄福永ペルシアンナイトだった。他頭数出しの池江厩舎の場合、何となく人気薄のほうが好走する傾向があるんだと、ずっと以前の有馬記念のオーシャンブルーの頃から思っていたが、今回はそんな自分自身の見極めに逆らってしまったと...

山暮らしの日々

春の盛りを迎えて、山暮らしの風景もいっきに変化(ヘンゲ)してきた。 外の池にカエルが卵を産み落とすことに始まり、花々が勢いをつけて咲き誇り始め、今はソメイヨシノが満開を過ぎてそよ風が吹くとチラチラと桜吹雪を見せ始めている。すでに夏日の気温と天気予報士が言っているが、山の中では猫もうたた寝するのどかさだ。 山の暮らしもずいぶんと長くなった。脊髄の大きな手術を経て、何とか社会復帰を目指そうとしてからだからそうなるのだが、体感時間としてはアッという間だった。 山暮らしの中で唯一発見したこと。それは、花も虫も鳥も獣たちも、両生類や爬虫類たちも、日々生き抜くだけの栄養を食らい、それ以上は求めず腹八分を知り、あとは何かに憑りつかれた様に交配や生殖を繰り返して、その一生を終えていくのだということである。 見守っていると、地球上で生きるという行為は、それに尽きるのだ。ただ人間だけが、強い物欲に見舞われて、他人様以上の収穫のストックを確保しようと蠢いている。人間であるということは、道具を使える知性やあるいは鍛え方によっては気高い思想などを備えていることよりも、実は限度を知らぬ物欲にこそ、人間らしさが特異に表出されているのであるのだろう。 自然の中の生き物たちは、食らうにしても必要以上の貪欲さを示すことはない。貯め置くストックは持たないし、満たされてさえいれば、蛇とカエルが隣り合わせにいても同存できるのだ。そう言えば、吐くまで飲んで食べ尽くすのも人間であればこそなのではないか? 人間というのは、かくまでも罪深い特異な地球上生物と言えるのかも知れない・・・。