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巻菱湖



この3日間出かけていて、昨夜帰って来ると、待ち構えるように知人から連絡があった。
曰く、「某所で賑やかに話題にされているよ」と。
だが、その場所は、総合案内スレッド自体に「では、嘘を嘘と見抜ける貴方、お楽しみ下さい」とあり(いやそのスレッドの表記もあるいは嘘なのかも知れないが・・苦笑)、言わば世間の井戸端会議のようなものだと認識しているので、特に感想はなかった。

まあ、話題になった理由は、出かける前に、私がある意志を持って、由進作「巻菱湖」の駒を、オークションに出品したことにあるのだろう。せめて私自身を直接に知る方たちだけには、本意を伝えておかねばならないのではないか?そう思った。

これまで私は、「駒蒐集家」とか「駒愛好家」、あるいは「駒の研究家」などと、自分を規定したことはない。

ただただ、とある一瞬に、駒に魅せられてしまった単なる駒好きでしかなく、その立場で、自分自身の関心のままにアプローチしてきただけなのだ。それを文章にしてきたのも、所有すること以上に文章にすることが、私にできる方法だったからである。それ以上の意味はない。

6年前、ひとりの駒師と幸運にも出会い、その作品を見守る中で、私自身も学んできた。予期につけ悪しきにつけ、新しい人との出会いもあって、その作業は加速度をもつけて形になってきたのである。それなりに楽しい作業だったと言える。

最近、駒師由進(出石)についてブログで触れないなどと言われるが、その最大の理由は、去年彼の駒が棋界最高峰の名人戦対局駒となったからである。そうなったら、何を選択し、何を友として、あるいは何を目標として、どう生きていくかというような作品世界は、もはや彼自身の選択にしかなく、部外者の入る余地はないと考えているからである。ここまでなのか、あるいはこの先まで可能性を秘めているのか、そんなことは、もはや作り手自身の人生観でしかないのはいうまでもないだろう。これ以上は、余計なお節介でしかないし、ある一人の駒師がどう育っていくのかという書き手としての私自身の裏テーマは、もはや完結しているのかも知れない。

ここ6年の間、私は駒師由進の作品を通して、あるいは根底の土台として、見極めの軸としてきた。
じっと背後から見つめてきた感想からすると、由進流「巻菱湖」は、すでに彼の作風としての書体は完成しているのである。(人の好き嫌いは別物だが)

ここで私の書き手としての刺激を求める天邪鬼な心が動くのだ。私は、例えば相撲なら、幕内上位から小結関脇に出世しようとする力士の瞬間に、大きな関心を抱くのだ。大関横綱となってしまうより、この若く荒々しい同時に粗々しくもある瞬間に輝く才能に魅かれる。その意味では、駒蒐集家やブローカーなら大関横綱となってからがビジネスチャンスなのかも知れないが、私にはそれは関心外のことである。そんな輩が一人ぐらいいてもいいだろう。誰しもがあなたの心の欲と同一の生き方をしている訳じゃない。

私自身の得た結論は、由進の想いとは別なものだったのかも知れない。「安清」「長禄」「宗歩好」などに、これからどう完成していくのかという可能性を見い出すが、すでにそれなりの完成期を迎えている「巻菱湖」には、これ以上の表現の醍醐味を感じないのだ。勿論、手元に置いておけばそれなりに楽しめる駒であるのは間違いない。

もうひとつ思ったことがある。「巻菱湖」は、一見難しそうに見えるが、字母さえしっかりしていれば、極端に言えば駒作りの初心者さえ、ある程度は形がついてしまう不思議な書体であることに気づいていたからだ。(勿論彫り駒は彫りの技が必要となるが)だからこそ、それなりにいい「巻菱湖」をより多くの人たちの眼にとめて貰うべきだろうと。

で、さらに考えた。考え抜いた。最近、駒のオークションも何となく低迷している印象があるし、駒の価格もわずか数年前とは比べものもないほど低迷している。ひとえにそれは、きちんとした駒が、きちんとした形で流通していないからなのではないかと。良いものが、たまには流通しなければ、購入意欲も下がり、結局はじり貧になってしまうことになる。

しかし、そのためには、密かに代行業者を使って出品したら、意味はない。掘り出し物の良さをアピールしなければならないだろうからだ。価格は、それが今の駒に対する購買意欲の現実だから、その評価を知るだけでもこれからの参考にはなるだろう。

かつては、製作の情報を世に伝えることが大事だと語っていた由進が、どこかの誰かのアドバイスを受けた結果なのか、ブログ更新を止めて秘密主義化しているその方策の効果も、果たして末端まで浸透しているのか否かという形で試されて明らかにもなるはずだ。

今あるがままの現実を敢えて知るために、私は実行した。駒は道具だ。もはや平箱でしまったままの現状より、使われる喜びを駒に与えるべきでもある。いいものは、流通してこそいい噂をも呼び込むに違いない。

結果は、総閲覧数が1500を超え、ウォッチリストにはその1割ほどが登録されていた。関心を呼ぶさざ波が沸き起こっていたようだ。それだけでも敢えてやってみた成果はあったのだと解釈している。落札価格も、中古品と考えるならそれなりの評価だったと感じる。いや、私は駒が小さな投機・投資の材料と考えてはいないからなのだが・・・。勿論、きちんと看板を掲げて納税をも果たす著名なエージェントやマネージャーがつけば、この限りではないだろう。でも、そもそも作品というものは、作者の死後に2度と手に入らないという状況下で価格は高騰するものではないだろうかとも思っている・・・。


余波?私は世間様の井戸端会議で、由進の作に飽きて手放したならず者と断定されているようです。でもそれも、今回実行してみたチャレンジが引き起こしたさざ波なのでしょう。どんなことであれ、多少は賑やかでないと面白くないですから。

でもね、私の手元にはまだ3作の由進作の盛上げ駒があって、大事にしているんですから。ご安心くださいませ、ハイ。
                                                              
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