3年前の12月、特定秘密保護法が成立した。
そのとき私は、こんなメモを残したが、2年後の夏には安保関連法案が充分な論理的説明もないままに集団的自衛権の名の下に戦争(ができる)法案として改正され、3年経った今、9条否定や人権私権を制限した国家主義を目論む憲法改正を裏テーマにして、参議院選挙を迎えている。
戦後71年目を迎えた今、私たちは改めて「平和の価値」を考える時を迎えている。
参考までに、異なる「秘密の花園」を載せておこう。さて、あなたのイメージする「秘密の花園」はどちらだろうか?
<2013 12月 了>
昨夜、多分来年の流行語大賞最優秀候補が決まった。
「それは秘密です」
直近の選挙で公約にも、議論にもなかった特定秘密保護法が、民主主義的議論を無視して強権手法によって立法府で成立してしまったのだ。
この法案のいかがわしさは、中身と運用の稀にみる曖昧さである。
しかも場当たりに秘密のチェック機関として衆院通過後も出されてきたのは、結局は内閣が最終的にチェックするという訳の判らぬ修正提案だった。そこには第3者には一切関与させないという意志が満ち満ちていた。不思議だった。
行政の秘密指定を行政そのもののトップがなすというのでは、秘密はすぐに際限なく拡大する。
大義名分を言葉で与えてしまえば、あらゆることがやがて拡大解釈されて秘密になるのは自明であろう。過去の歴史が証明しているではないか。
これまでにも行政は、法案の曖昧さを突くように拡大解を続けてきた。法案に使用される役人用語そのものが、巧みに拡大解釈を可能にするように仕立てられているものだということは、事実である。
だから行政府から出される法案は、立法府の議論によって拡大解釈ができる曖昧さを許さぬ物でなければならないことは、独裁国家ではない民主主義国家では最低限のルールの筈であるのだが、昨夜、立法府は自らの付託された守らねばならぬ機能を捨て、行政府の前に屈服した。もっとも司法でさえ、例えば1票の格差は違憲あるいは違憲状態と裁きながら再選挙を命ずることもないのだから、もともとこの国の民主主義レヴェルはその程度のものかも知れないのだが・・・。
この特定秘密保護法の怖さは、憲法が保障している様々な基本的人権を、行政の力で否定できることにある。やがて拡大解釈が実施されたら、国家の前に民は隷属するしかなくなるだろう。知る権利や思想信条の自由権を持った私たちは、今本当に危機的状況に見舞われてしまったのだ。行政府によってである。
特定秘密法には、秘密の前では、個人の調査をすると明記されている。たぶんその調査は警察権によって為されるのだろう。あるいは天下りの民間会社が予算を取ってするのかも知れない。いずれにせよそれが秘密裡に徹底すれば、一般人は得体の知れぬ者たちとして秘密に排除され、結果的に特定の者たちによって講じられた世襲と階級制の社会が到来することになるに違いない。そんな萎縮した社会への第1歩が、人々が本質を理解する暇もないままに刻まれてしまったということなのではないか?
これから私たちの生活は、行政によってジワジワと息苦しく締め上げられる。
そんな気がしてならない。
南アフリカで闘いによって民主主義を勝ち取ったマンデーラが亡くなったとき、この国では特定秘密保護法が成立した。
象徴的である。
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