そう言えば、2年前の9月には、こんな夜を過ごしていた。
将棋は、路地裏の縁台将棋に見られるような庶民文化。
囲碁は、教養人の嗜み。
などと、言われることがあるが、私自身は今では、盤上で木に触れるか、石に触れるかの差だと思えてならない。
石には石の魅力もあるが、しっとりとした木や画き込められた黒い漆の肌触り(彫り駒なら印刀の彫り跡となる)に、最近はより魅かれている。いや、嵌まっていると言った方が正しいだろう。
故藤沢秀行や、全盛期の武宮正樹らの盤上に置かれた石の格調の高さや意識された様式美に心弾ませていたが、今はコミも6目半に増え、日中韓の棋士が集い合っていることもあって、囲碁自体が何となく世知辛くなってしまった印象も影響しているかも知れない。序盤から終盤まで石がぶつかり合うような、言わばえげつない勝負は、どうにも好きになれないのだ。
でも将棋だと、それが逆にハラハラドキドキ感を呼び込んで面白く感じてしまうのは不思議である。まるで勝負の躍動感が、素晴らしい駒の躍動感と一体となって発散されてくるような、そんな気分になってしまうのだ。
銘駒の魅力は、そんな躍動感にもある。だから今夜もまた、届いた将棋駒や駒木地の写真を思わず眺めてしまった。
将棋は、路地裏の縁台将棋に見られるような庶民文化。
囲碁は、教養人の嗜み。
などと、言われることがあるが、私自身は今では、盤上で木に触れるか、石に触れるかの差だと思えてならない。
石には石の魅力もあるが、しっとりとした木や画き込められた黒い漆の肌触り(彫り駒なら印刀の彫り跡となる)に、最近はより魅かれている。いや、嵌まっていると言った方が正しいだろう。
故藤沢秀行や、全盛期の武宮正樹らの盤上に置かれた石の格調の高さや意識された様式美に心弾ませていたが、今はコミも6目半に増え、日中韓の棋士が集い合っていることもあって、囲碁自体が何となく世知辛くなってしまった印象も影響しているかも知れない。序盤から終盤まで石がぶつかり合うような、言わばえげつない勝負は、どうにも好きになれないのだ。
でも将棋だと、それが逆にハラハラドキドキ感を呼び込んで面白く感じてしまうのは不思議である。まるで勝負の躍動感が、素晴らしい駒の躍動感と一体となって発散されてくるような、そんな気分になってしまうのだ。
銘駒の魅力は、そんな躍動感にもある。だから今夜もまた、届いた将棋駒や駒木地の写真を思わず眺めてしまった。
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