2年前に、こんなメールをある若手駒師に送ったことがある。
『ご連絡ありがとうございました。
今日のメールで、熟練のホストのように、世にある駒子さんたちをじっくりと愛撫してやればいいのだと理解しました。
そして、そこには秘伝のテクニックが確かにあるのだということも知りました。先っちょを短くしたり、縦に思いや意識を定めたり、時計の反対周りでくすぐって見たり、弁慶のように100人切りですか・・・。
ああ。何と世の中は広く、凄いものなのでしょう・・・。そうしてかつて鍛えた龍山などは、やはりいい男ですもんねぇ。女房には逃げられましたけど・・・』
駒を作るということが、実は、男が女に(或いは女が男に)施す愛撫と同じなのだと気づいたからだった。
彫埋状態に仕上がった駒子さんたちに、ドレスアップとメイクアップを施して、自分にあった筆先の長さで、じっくりとしかし大胆に漆の愛撫を加えて行く。そそり立つ縦線に気を払い、クルッと払う筆の向きにも気配りし、その愛撫はエクスタシーの頂点へと向かう。
そしてようやく一枚の盛上げが出来上がっていく。後戯は漆の乾きに施される。縮ませず滲ませずと・・・。
愛撫の技法は、それこそ細やかに絶頂に導くものでなくてはいけない。その上で、経験を積み上げて、技を巧みにしかし自然に高めることも要求される。
おお、ならばそれは、この世の何処かにいるという、あの伝説の棹師の世界ではないのか?
そうなのだ。おそらく駒師たちは、それぞれに理想の女(或いは男)を手先の技法によって「いかせる」ようにして駒を作っているのだ。それは同時に、数をもこなすことさえ要求される。最終的には、かの吉原の花魁たちを総揚げして、皆をいかせ切った奴が、淫靡なる世界の深みや重さの表裏全てを知り抜いて勝つのだ。
もしその技を見て、ガサツな仕上げや、作り上げた顔のドレスアップやメイクアップに不満を抱いたとしたら、それは、異性を絶頂に導く技法の未熟さ故ということに他ならない。異性をいかせられない駒師は、作品の魅力を生み出せはしない。
そう考えると、またひとつ駒というものに興味が湧いてくる。うん、面白い・・・。
世の中には、一見「巧みな」ものが多く流通しているが、これからの長い時間に耐え得る「凄い」作品はごく稀だからだ。
それにしても、自己消化もできていない教科書的なものがあまりにも多すぎる。それで良しとしている受け手もまた然りである。
マニアックにならずとも、せめて本質を見抜く眼だけは高めようと、謙虚に日々勉強に努めてはいるのだが、はてさて、どうだろうか・・・?
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