スキップしてメイン コンテンツに移動

駒作りの心

(2014 3月了)

2年前に、こんなメールをある若手駒師に送ったことがある。

『ご連絡ありがとうございました。
今日のメールで、熟練のホストのように、世にある駒子さんたちをじっくりと愛撫してやればいいのだと理解しました。
そして、そこには秘伝のテクニックが確かにあるのだということも知りました。先っちょを短くしたり、縦に思いや意識を定めたり、時計の反対周りでくすぐって見たり、弁慶のように100人切りですか・・・。
ああ。何と世の中は広く、凄いものなのでしょう・・・。そうしてかつて鍛えた龍山などは、やはりいい男ですもんねぇ。女房には逃げられましたけど・・・』



駒を作るということが、実は、男が女に(或いは女が男に)施す愛撫と同じなのだと気づいたからだった。

彫埋状態に仕上がった駒子さんたちに、ドレスアップとメイクアップを施して、自分にあった筆先の長さで、じっくりとしかし大胆に漆の愛撫を加えて行く。そそり立つ縦線に気を払い、クルッと払う筆の向きにも気配りし、その愛撫はエクスタシーの頂点へと向かう。

そしてようやく一枚の盛上げが出来上がっていく。後戯は漆の乾きに施される。縮ませず滲ませずと・・・。

愛撫の技法は、それこそ細やかに絶頂に導くものでなくてはいけない。その上で、経験を積み上げて、技を巧みにしかし自然に高めることも要求される。

おお、ならばそれは、この世の何処かにいるという、あの伝説の棹師の世界ではないのか?

そうなのだ。おそらく駒師たちは、それぞれに理想の女(或いは男)を手先の技法によって「いかせる」ようにして駒を作っているのだ。それは同時に、数をもこなすことさえ要求される。最終的には、かの吉原の花魁たちを総揚げして、皆をいかせ切った奴が、淫靡なる世界の深みや重さの表裏全てを知り抜いて勝つのだ。

もしその技を見て、ガサツな仕上げや、作り上げた顔のドレスアップやメイクアップに不満を抱いたとしたら、それは、異性を絶頂に導く技法の未熟さ故ということに他ならない。異性をいかせられない駒師は、作品の魅力を生み出せはしない。

そう考えると、またひとつ駒というものに興味が湧いてくる。うん、面白い・・・。

あとは世に蔓延る俗説に惑うことなく、本物の審美眼、本物の感性で、本物の作品の味や香気を体得できるかどうか、受け手の責任にかかってくる。
世の中には、一見「巧みな」ものが多く流通しているが、これからの長い時間に耐え得る「凄い」作品はごく稀だからだ。
それにしても、自己消化もできていない教科書的なものがあまりにも多すぎる。それで良しとしている受け手もまた然りである。
マニアックにならずとも、せめて本質を見抜く眼だけは高めようと、謙虚に日々勉強に努めてはいるのだが、はてさて、どうだろうか・・・?


コメント

このブログの人気の投稿

久し振りに~駒を一枚

ここしばらく雨も雪も降らず、乾燥した暖冬の日々が続いていた。 暇な時間も持て余すぐらいあったので、じゃあ久し振りにやってみるかと、駒を一枚作ってみた。下手なのは承知の助だが、こんなことをやっていると、それなりに一心不乱の集中力が必要不可欠で、自己鍛錬にはいいのだ。 手元には中国産の黒蝋色漆しか持っていないので、乾きが早く、厚めに塗った部分がどうしてもシワシワになりがちなので、ちょっとだけ工夫をしてみた。以前に読んだ司馬遼太郎の文庫「軍師二人」の中の「割って、城を」の文章を想い出し、実践してみたのだ。 「割って、城を」は豊臣家から次に将軍秀忠の茶道の師範となった大名古田織部正のお話で、敢えて茶碗を割って塗師(ぬし)に修復させ漆と金粉の景色を施すことによって天下の名器に変える狂気の美学を持っていた。 その塗師を説明する文章の中で、「麦漆」に触れられていた。漆に、小麦粉を混ぜてよく練り、糊とする。他にも「サビ漆」や磨き材としての百日紅の炭や木賊(とくさ)の話も載っていた。何となく、そうか「麦漆」かと思って、自己流でやってみた次第。 よく練って2・3日経った「麦漆」は、盛上げ部分の乾きがゆっくりとなって、今の乾燥低温の気候なら、そのまま放置しておいてもシワひとつよらずに徐々に固く締まっていった。400年前の先人の知恵に、これは使えるなとおおいに感心した。 今回の文字はほぼ我流だった。これで字母通りに40枚作れたならいいのだが、元来不器用な私にはそこまでの根気はないから、まあどうしようもない。 時間潰しの駒一枚がようやく出来上がって一安心したとき、どうしたわけか原稿依頼のメールが届いた。短い原稿枚数だったが、それはそれだ。やはり私には、駒作りよりも原稿書きの方が性に合っている。 そうか・・・。たった一枚の駒作りで鍛錬した集中力は、原稿書きのための事前訓練だったのかも知れない。おそらくそうなんだろう。 この一度きりの人生、私自身の眼の前に起こることは、あるいは全てが有機的に繋がっているのだから。

2017 安田記念・東京芝1600m~強さとは?脆さとは?

6月4日。春のG1最終戦「安田記念」。 3月の終わりの高松宮記念からずっと続いてきた古馬のG1ロードと3歳馬によるクラシックロード。その最終戦となる安田記念である。今月の末に最終最後の宝塚記念が行われるが、気分は安田記念で一括りとなるのが人情というものだろう。 この2か月、ファンとして善戦していれば気分爽快、ファイティングスピリットも維持されているが、悔しさが募っていれば、もうそろそろ競馬に疲れていることもある。 私?何となくしのぎ切って、まあ取り敢えず可もなく不可もなく、安田記念を迎えたのだったが・・・。 安田記念での狙いの伏兵馬3頭は、すでに決めていた。 まずは、昨年の覇者ロゴタイプ。昨年の前半5Fを35秒で逃走し、ラスト3Fは33秒9で決め、あのモーリスをも寄せつけなかった馬だ。4年前の皐月賞はおおいに弾けて差し切ったが、今は、先頭にこだわる逃げ馬がいれば好位から、いなければ自ら先頭に立ってレースを作る完成した競走馬となっている。出走馬を見渡しても、ロゴタイプを押さえて逃げようとする馬は見当たらず、自らのペースでレースを支配すれば、おそらく好走は間違いないと読んだ。 2頭目は、グレーターロンドン。爪の不安からまだ完調には・・?という説が流れていたが、これまでの完勝とも言うべき連勝の過程を知る限り、初めてのG1挑戦での未知なる魅力に溢れていたし、最終追い切りをGCで見て、私自身は大丈夫と見なした。 そしてレッドファルクス。6F戦でのG1馬だが、何と言っても前走道悪の京王杯での上り33秒7の破壊力のある決め手は、乗り方ひとつで、たとえ良馬場のマイル戦でも通用するものがあると信じた。鞍上はミルコ・デムーロでもあったし。 この3頭の伏兵を見出して、それに対抗し得る馬を選べば、安田記念は大丈夫だと信じて疑わなかったのである。 まあ、ここまでの推理は大正解だったのだが、ここから迷路にはまり込んで行ったということだ。 前記3頭を凌げる馬はどれか?と考えると、考えれば考えるほど、ここまで尽くしてくれた贔屓の馬が、私の頭の中で浮かび上がってくる。それもまた人情というものだ。 より冷静に言い切れば、私自身は、競走馬の強さと言うのは、自らにどんな不利な条件下であっても、アクシデントに見舞われない限り、少なくとも掲示板は外さないという...

凄いぞ 凄い!! イボタ蝋!!

イボタ蝋のワックス効果に驚いたのは、5年前の秋だった。 日本の職人ツールは、やはり想像以上に凄かった。 いろいろと使ったのだが、まだ2/3が残っている。 これはそんなお話である。                <2011 10月了> 山から下りて町に出た。 用を足して、少し時間があったので知り合いのリサイクルショップを冷やかしに行った。 店内をグルリと見て回った。とりわけ欲しいものがあったわけではないが、まあお客の振りをしてみたんです。 と、なんと写真の「イボタ」蝋が、奥まった棚に載せられていた。 この「イボタ」は、プロの職人が古くから家具などの磨き艶出しに使っているもので、水蝋樹(イボタの木)につくイボタロウ虫の雄の幼虫が分泌した蝋を、加熱溶解して冷水中で凝固させたものだ。硬く緻密で、万能の効果があると言われている。 効用は、木工の艶出し以外にも、蝋燭、薬の丸薬の外装や、絹織物の光沢付けにも使われる。今では、結構高価なのだ。 急に欲しくなって、知人の店主に訊いた。 「このイボタ、いくら?」 「一つ持てば、一生物だから、まあ3000円かな。でも売ろうと思ってたわけじゃないんで・・」 「OK。そこを何とか2000円」 「うーん・・まあいいか」 「ハイ、2000円」 私は、即座に買ってしまった。 家に帰って、すぐに手持ちの屋久杉の盆に使ってみた。 結果は? いやすばらしかった。凄いと言っても大袈裟ではなかった。 いつもは、まるで宇宙のような屋久杉木地の杢模様を確かめて愉しんでいる皿盆で、それなりに光沢はあったのだが、それがさらに艶と輝きを増したのだ。アンビリーバブル・・・ やはり日本の職人のツールはすばらしい。これを使えば、多分1000年前の仏像でも、鮮やかに変貌を遂げるだろう。もう手放せないな、きっと。