(ライティング:4月1日)
東京で、桜が満開の瞬間(とき)を迎えようとしているようだ。
以前、アクティブに動き廻っていた頃には、今頃に東京の満開、4月の中旬過ぎに福島辺り、5月の半ば頃に北海道と、年に何度も桜の満開を楽しんでいた。
桜には、妖艶な魔性の力が内在すると、そのときから思い続けている。年に1度、1週間ほど決まって満開に咲き誇り、それを繰り返すエネルギーの在処を想像すると、思わず感嘆の声を上げない訳にはいかない。
何故、まるで「劫の時空」に閉じ込まれた八百比丘尼のように同じことを繰り返して満開に咲き誇るのか?人々に春真っ盛りの到来を伝えてくれていると考えるならのどかだが、いやそうではなく、もっと別の意図が潜んでいるのではないかと思いを馳せると、怖ろしくもあり、あるいは畏れすら感じ取ることもできるのではないか。
私は、今までに一度だけ、満開中の満開の桜の姿を見たことがある。満開の桜が、一定の気候条件(雨や風もなく生温かい気温に恵まれるという意味だ)が揃うと、そこからさらに膨らみ続けて、まるで出来立ての綿菓子が膨らみ切ったように極限まで燃え盛るのだ。この一瞬を垣間見たとき、桜の怖さを感じ取ったのだった。美しさに潜む畏れに触れたと言ってもいいだろう。
それからの私にとって、桜はそんな存在となった。しかしあのときの満開中の満開の桜には、その後一度も出会えていない。雨や風に邪魔されて、満開の途中で花は飛ばされたり水の重さで萎んでしまったりしてしまっている。
もう一度だけ、あの満開中の満開となって膨らみ切った桜に出会いたいと願いながら、また今年も桜の季節を迎えた。
今年こそと思う4月となった。
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