(絵:N.Akira)
人には、閃いて働く「第6感」がある。
感覚には、視覚、嗅覚、触角、味覚、聴覚を指して「5感」の感覚があるが、それらが機能して働くとある一瞬に、人はある種の動物的本能で「第6感」を機能させるのだ。
そのためには「5感」を駆使する普段の訓練が必要となる。おそらくそれは、鍛え抜かれたた忍者が皮膚感で感じる気配のようなものでもある。
こんな風にも言えるかも知れない。例えばアスリートがグランドですばらしいファインプレーを実現する瞬間。狙ってやれることではなく、気がついたときには肉体が反射的に動いて、できてしまっていたという結果が後から実感できるような瞬間だ。
「5感」を鋭く機能させる日常鍛錬がそんなファインプレーを支える。
現代人は、おそらく「5感」を動物的に働かせる前に、何気なく指先を動かして便利に(しかし動物的には明らかに退化であろう)目先の情報を得てしまっている。時間は節約できるのだろうが、何か大事なものをおろそかにしてしまっているのではないか?
例えば道に迷って、今自分がどこにいるのか判らなくなってしまっているとき、その問題を即座に解決するには、スマホで地図や現在位置情報を探ればいいのだろうが、敢えて迷いながらも自力で解決してみることに意味はあるのだ。時間と太陽の位置から方角を探ってみることなどから、解決の道は開けていくだろう。
もし無人島に行ってサバイバル生活を始めるとなったとき、あるいは戦火で焼け出されて難民生活となったときなど、補充電源が失われた1台のスマホより、1本のナイフの方が頼りになるに違いない。
そんなときは、生半可な情報より、水の在処や食べられるものかどうかの動物的判断の方が有効だ。
洗濯機の実現は社会的に大きな貢献をしたとは思うが、ボタンのプッシュ操作一つで何でも実現できるような文化的生活は人間の退化を早めるものになると思えてならない。センサーを頼りにする自動運転、自動ブレーキの車も然りだ。
アナログ人間種族かデジタル種族かの違いは、機械は壊れるものと予知するか、機械の安全神話を信仰するかの違いだろう。
私自身は、機械はいつか必ず劣化して壊れるとしか思えないので、アナログ種族である。
でもだからこそ、人の「第6感」の重要性を理解している自負を抱いている。
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