スキップしてメイン コンテンツに移動

2017秋華賞~京都・内回り芝2000m 


先週の京都大賞典を横山典サウンズオブアースを軸にして、いわゆる縦て目の抜けで取り損ねたために、意気消沈して過ごした1週間だったのだが、思わぬ結末が待っていて、土曜の午後には予期せぬ微笑みに包まれてしまった。

まあ、こういうことがたまにはなかったら、楽しみのない人生になってしまう。そう思うと、頬の筋肉はさらに緩んでしまった。

と言うのは、こんな流れだった。
縦目で逃した京都大賞典の落胆と反省は、私にはダメージが大きく、一瞬頭をボーッとさせてしまっていたようだ 。ボーッとした中で、エエイとばかりに、まだ消してなかったAパットのキー操作をして、京都大賞典の後に行われた岩手・盛岡の南部杯(交流G1ダート1600m)を、ほんの少しだけ馬連で買ってしまったのである。先行するだろう吉原ノボバカラから、連覇を目指す田辺コパノリッキー、中野省キングズガイ、川田ゴールドドリームへの馬連3点だった。

その後GCはつけっ放しにして、レースの生中継も見たが、ゴールインした瞬間、圧勝したコパノリッキーに目を奪われて、何と2着にはキングスガイが届いたのだと錯覚して、そのままTVを消してしまったのである。京都のショックが尾を引いて、やはり頭はボーッとしたままだった。

それから1週間、反省の日々で何とか過ごしていた。土曜の午後に明日の秋華賞の軍資金は少しはあったのだろうかと、念のためネットバンクを調べてみると、何と思いがけず予想外に増えていた。取引明細を見てみると、どうやらJRAから振り込みがあったらしい。JRAの購入記録を見ても、毎日王冠は的中だったが、その配当は京都大賞典で失くしていた。だからJRAから振り込まれる筈はなかった。

そこで思い当たった。そう言えば南部杯を買っていた。そこでAパットの地方競馬から南部杯の購入記録を調べてみると、ノボバカラとコパノリッキーの馬連を確かに買っていたのだ。しかもノボバカラが人気の盲点となって、馬連は万馬券の結果だったのである。その配当が、JRAから振り込まれていたのだった。

ヒャーッ・・・。私は、この1週間を忍耐と反省の日々で耐えていた。ああ、それなのに、それなのに・・・。と、なれば、1週間の反省と忍耐は、そもそも無駄なことだったのか?いや、それを言ったらお終いかも・・・。

とにもかくにも、結果を知らずにいた私自身が愚かであったのは間違いではないが、たとえそうであっても、私は明日の秋華賞の軍資金を手にしていたのは現実で、いっきに気分がハイになってきたのだった。


いつものようにGCの最終追い切りは確認していた。
私にとって気配が良く見えたのは、菊沢調教師が跨ってピーンと張りつめたような雰囲気だったアエロリット、その名の通りまさにウサギの駆け足のように弾んでいたラビットラン、それに休養2戦目の効果が見込まれるモズカッチャンと粘りの逃げが期待できるカワキタエンカ。調教で舌越ししていたファンディーナや、格下相手の紫苑Sのディアドラや、G1の善戦レディ・リスグラシューには、今回は食指が動かなかった。

ただ金曜からしとしとと降り続く雨が明日まで続くという予報に、馬場がどうなるかも判らず、まして3歳牝馬の重馬場適性も結果は出ておらず、とにかくパドックと返し馬を見て決めることにした。

返し馬を見ても、本当のところ、私の心は定まらなかった。昨日思わぬ振り込みでほくそ笑んだことが、気の弛みを生んでしまっていたのかも知れない。

で、ギリギリ迷って、京都内回りの2000mはそもそも直線の短いトリッキーなコースで、まぎれも多いし、それならば私自身の定石を変えずに、これまで通りの方法で行こうと決めた。気まぐれで自分のセオリーを変えると、たいていの場合はその後の流れが悪い方向に向かうことは、経験則として理解していたからである。それに、たとえ負けても私には降って湧いたような資金だから、被害者意識も生まれない感じでもあったし・・・。

逃げたカワキタエンカの作ったペースは、前半5F59秒1。馬場を考えると相当なハイペースだった。だからだろう。後半3Fの上りは37秒かかって、中断辺りからの2頭で決着した。

結論から言えば、アエロリットもラビットランも力の要る馬場に脚を取られていた印象だ。この両馬には良馬場で走らせたかった。モズカッチャンは1・2コーナー辺りで不運にも落鉄していたという。ハイペースで逃げたカワキタエンカは、最後まで力を振り絞って5着に粘った。

勝ったルメール・ディアドラは+12Kgの馬体重で私には丸っこく映ったが、それでも差し切ったのは種牡馬ハービンジャーの重適性を示した底力としか言えない。レースに絡んでまたも2着の善戦を果たしたリスグラシューは、馬も仕上がっていたが何と言っても武豊の手綱の冴えだったろう。

雨の馬場の影響下でさすがにこのハイペースも読めず、思った通り、私には何となく難しい秋華賞だった。最終追い切りの印象で決めたままに従って的中は逃したが、それほど熱くもならずに冷静だったのは、南部杯の万馬券のおかげだろう。

今週末には、強い馬が勝つと言われてきた菊花賞が行われる。まだ南部杯の配当は残っている。だからこそ楽しみなのだが、今この瞬間も降り続いている秋の雨が、菊花賞でも再び大きな影響を与えることがないことだけを祈っているが、それは天のみぞ知るところでもある。

取り敢えず次の日曜は、選挙に行って国民の義務を果たしてから、すっきりとした気分で菊花賞を見守ろうと思っている。

コメント

このブログの人気の投稿

2017秋・天皇賞(東京芝2000m)~やっぱり雨の中

  台風21号が北上し列島を抜けたかと思ったら、また週末に台風22号が通過した。週内からはずっと雨模様が続き、秋・天皇賞のスピード決着は望むべきもなかった。 関東では、土日にかけて雨脚は強まり、これはまた菊花賞と同じようなパワフルな競走馬魂が試されることになると、誰もが確信したに違いない。今や世界競馬の頂点に駆け上がっている日本競馬の巨大グループが、主として日本の競馬のために生産する名馬たちは、日本の軽い馬場に即応したスピードタイプの馬たちが多いから、秋華賞、菊花賞のような力とそれに耐えるだけの強靭な精神力が試されるような馬場になると、果たしてどの馬にスポットライトが照らされるのかが曖昧模糊とならざるを得ないのが、競馬ファンが直面する現実なのだ。 東京競馬場には11時ごろに到着した。西玄関受付から7階に上がり、しばらく椅子に座ってじっとしていた。大雨の中、競馬場に駆けつけるのも体力と気力が必要で、気儘勝手な山暮らしの身にはきついものがある。 雨は午後にはさらに強まる気配が濃厚で、途切れることなく馬場に降り注いでいる。それでもこの日、6万4千人のファンがどこやらから集ってきていた。これだけの豪華メンバーが揃えば、ライブで見たいと思うのは当然だろうし、雨が煙る不良馬場の秋・天皇賞などずっとなかったから、記念すべき記憶となる価値もあったろう。的中すれば喜びに包まれた記憶ともなるだろうし・・・。 何となくピーンと来た6Rの松岡正海ローレルジャックの単勝を買ってみただけで、9Rまでは競馬新聞と窓外に広がる馬場の状況を眺めながら時を過ごしていた。9Rの1000万条件の特別戦精進湖特別は、天皇賞と同じ2000mの距離で行われる。このレースをきちんと見守ったなら、今日の天皇賞のある種の傾向も判るというものだ。 結果は、何と2000m2分10秒1の決着で、上り3Fは38秒を要していた。良馬場の強い馬のスピード決着なら、2200mの時計である。すでに10秒以上時計のかかる水飛沫の跳ね上がる不良馬場となっている。天皇賞までに後1時間15分もあり、雨はさらに降り注ぐだろう。 GCの最終追い切りをいつものように録画して見直したりしていた。ひと目で気配の良さを感じたのはサトノクラウンだった。M・デムーロが前走毎日王冠で勝ったリアルスティールを降りてまで手綱を取る...

2つの案内状(桂文生独演会と故大内九段を偲ぶ会)

もうずっと太陽の姿を見ていないような気がする。 照りつける陽光、透き通るような青い空にムクムクと聳え立つような白い入道雲。8月の夏の記憶は、私にはそれが全てであるのに、止まぬ雨故に湿気混じりの日々が続いている。 湿気は私の体調維持には大敵なのだが、どうしようもない。自然の力には為す術などないのだと、諦めの日々で、ただただじっと時の過ぎるのを待っておとなしくしている。「ひよっこ」と「やすらぎの里」と、「竜星戦」「銀河戦」に週末のGCの「競馬中継」をひたすら友にするような生活態度は、世間様からから見れば、実に非生産的な愚かしい姿に見えるのだろうが、身体がだるく、それでなくても冴えない頭も働かないような現状では、気だけ焦っても如何ともしがたいのだ。 そんな折、2つの案内状が届いた。 ひとつは、第1回桂文生独演会。8月26日午後6時開演の池袋演芸場。 78歳の文生が「一人酒盛り」と「転宅」のふたつの噺を演じ、助演は、弟子の桂扇生が「千両みかん」、桂文雀が「尼寺の怪」 をかける。 これはもはや、桂文生の遺言の様な高座になると思い、行くことに決めた。(いえ、勿論半分本気で半分はジョークですから) 興味のある方がいらっしゃれば、ぜひ池袋演芸場でお会いしたいものである。(ちなみに当日券は2500円です) そう言えば、今は亡き大内九段が、桂文生の噺を国立演芸場で楽しんで、 「いやぁ、さすがでしたよ。文生師匠の噺は本物です」と、嬉しそうに眼を細めて言っていたのを想い出した。 もうひとつの案内状は、その「大内九段を偲ぶ会」の案内だった。 9月6日一ツ橋「如水会館」。 優しく、厳しく、人情には厚くも一言居士だった故大内九段の人となりに、ここ6年以上もの間身近に触れることになった私には、駆けつけても行かねばならぬ会だろう。明日にでも、出席のハガキを投函しようと思っている。 4五歩と指せば名人となっていた。1975年第34期名人戦第7局。しかし大内9段は読み切っていたのに、魔性の何かに取りつかれるように5手先に差すべき7一角と指してしまっていたのだ。名人位に限りなく近づき、ほぼ手中に収めた瞬間に、全てを失った大内九段。そのときの話を、大内九段自身の口から聞くことができたのも、今となっては私自身の大きな財産である・・・。 私自身が今こうしている間にも...