台風21号が北上し列島を抜けたかと思ったら、また週末に台風22号が通過した。週内からはずっと雨模様が続き、秋・天皇賞のスピード決着は望むべきもなかった。
関東では、土日にかけて雨脚は強まり、これはまた菊花賞と同じようなパワフルな競走馬魂が試されることになると、誰もが確信したに違いない。今や世界競馬の頂点に駆け上がっている日本競馬の巨大グループが、主として日本の競馬のために生産する名馬たちは、日本の軽い馬場に即応したスピードタイプの馬たちが多いから、秋華賞、菊花賞のような力とそれに耐えるだけの強靭な精神力が試されるような馬場になると、果たしてどの馬にスポットライトが照らされるのかが曖昧模糊とならざるを得ないのが、競馬ファンが直面する現実なのだ。
東京競馬場には11時ごろに到着した。西玄関受付から7階に上がり、しばらく椅子に座ってじっとしていた。大雨の中、競馬場に駆けつけるのも体力と気力が必要で、気儘勝手な山暮らしの身にはきついものがある。
雨は午後にはさらに強まる気配が濃厚で、途切れることなく馬場に降り注いでいる。それでもこの日、6万4千人のファンがどこやらから集ってきていた。これだけの豪華メンバーが揃えば、ライブで見たいと思うのは当然だろうし、雨が煙る不良馬場の秋・天皇賞などずっとなかったから、記念すべき記憶となる価値もあったろう。的中すれば喜びに包まれた記憶ともなるだろうし・・・。
何となくピーンと来た6Rの松岡正海ローレルジャックの単勝を買ってみただけで、9Rまでは競馬新聞と窓外に広がる馬場の状況を眺めながら時を過ごしていた。9Rの1000万条件の特別戦精進湖特別は、天皇賞と同じ2000mの距離で行われる。このレースをきちんと見守ったなら、今日の天皇賞のある種の傾向も判るというものだ。
結果は、何と2000m2分10秒1の決着で、上り3Fは38秒を要していた。良馬場の強い馬のスピード決着なら、2200mの時計である。すでに10秒以上時計のかかる水飛沫の跳ね上がる不良馬場となっている。天皇賞までに後1時間15分もあり、雨はさらに降り注ぐだろう。
GCの最終追い切りをいつものように録画して見直したりしていた。ひと目で気配の良さを感じたのはサトノクラウンだった。M・デムーロが前走毎日王冠で勝ったリアルスティールを降りてまで手綱を取るのも心強かった。後はこれまで楽しませてくれたネオリアリズムやグレーターロンドン、ヤマカツエースに私なりの勝負気配を感じていた。問題は、キタサンブラックである。これまでの調教過程を競馬新聞の一覧表で見ると、黙って買いなのだが、映像で見たキタサンブラックの走りが何となくスーッと伸びているようには思えず、もっさりとした走りに思えてならなかったのだ。それが嫌だった。
しかしパドックを眺めて、私の眼に抜けてよく思えたのは、サトノクラウンとキタサンブラックだった。
ルメールの騎乗するソウルスターリングの気配にも注目してみたが、あの桜花賞3着の敗因が緩い馬場だったとされていたことを想い出すと、やはり食指が動かなかった。
ネオリアリズムの+16Kgの馬体増も気になったし、リアルスティールのシュミノー騎乗も気懸りだった。グレーターロンドンには勝負気配を感じたが2週続けての下河辺牧場の生産馬の勝利と言うのも出来過ぎの印象があったし、ヤマカツエースにも同じ池添謙一が騎乗したオルフェーブルのパワーには及ばないだろうとも思えた。また迷いの迷路に紛れ込んでいたのだろう。
この大雨に見舞われた馬場状況なら、重馬場の巧拙など実はもはや無関係で、試されるのは、競走馬の気高い闘う気力と精神力なのだと、ふと私の中の「賢い私」は気づいたのだが、私の中の「愚かな私」は、どうせサトノクラウンとキタサンブラックで決まるのなら1番人気だろうし、そもそも1番人気の1点勝負できるほどの人生を送っているのかい、あんたは?と悪魔の囁きを魅力的に囁いてもいた。
で、結局、ひ弱で愚かな私は悪魔の囁きに乗ったのだ。人生には正論よりも、目先の利欲に走らせる悪魔の囁きが愛おしい場合があるのだ。サトノクラウンからキタサンブラックとの組み合わせはほんの僅かな保険にして、最終追い切りで選んだ馬たち3頭を厚めに馬連4点を購入した。
ファンファーレが降り注ぐ雨の中に響いた。
そしてゲートが開いた。ガシャーン!!
そのとき一瞬立ち上がるような仕草を見せて。武豊キタサンブラックが出遅れた。前扉に突進してぶつかった瞬間にゲートが開いたようだ。
隣りの観衆から悲鳴のような溜息まじりの言葉が響いた。「何だ!出遅れてるじゃん・・・」
このとき、私はキタサンブラックの叔父ディープインパクトのまさに落馬寸前だったスタートの一瞬を想い出していた。「あのとき、それでもディープインパクトは楽勝した・・・」と。
でも悪魔の囁きに乗った「愚かな私」は、シメシメとほくそ笑んでいた。
キタサンブラックの中団からの競馬に変化があったのは、3・4コーナーである。
3コーナーを過ぎると武豊キタサンブラックはするするとインから上昇を開始した。このとき馬自身が勝負を察して前に前にと進んで行ったのか、あるいは武豊の絶妙な指示があったのか、本当の処は騎手ではない私には判らない。
しかし言えることは、4コーナーを廻って直線を迎えたときには、武豊キタサンブラックはインから2番手に上がっていたのである。
ホームストレッチからの武豊の騎乗は、まさに絶妙、名人芸だった。馬をしたたかに追って示すムーアやモレイラ、デムーロやルメールの「剛」の名人芸とは違って、武豊のそれは、日本の競馬を熟知することから生まれる「柔」の名人芸だった。
まずは、先に早めに仕掛けた田辺グレーターロンドンをクロスして抜き去り、その上で、また追い込む姿勢を露にしていたデムーロ・サトノクラウンをもクロスして、クロスしながら抜き去る馬たちにプレッシャーを与え、結局この大雨の中の馬場のいちばん良い処を確保していた。
ゴール前、前をよぎられたサトノクラウンは、それでも体勢を立て直して再度伸びてきたがクビ差届かなかった。底から2馬身半差で3着となったのは岩田レインボーライン。どちらかと言えばパワータイプのステイゴールド産駒だった。さらに5馬身遅れて4着がリアルスティール。2分8秒3。秋・天皇賞史上ダントツに遅い時計だったが、レースの余韻は強烈で味わい深かった。
この結果からしても、キタサンブラックとサトノクラウンの気高いまでの勝負根性が判るというものである。
台風22号のもたらした大雨の中、私たちは3つのことを改めて思い知らされるように確かめたのだと思う。
勝負するサラブレッドは、やはり敬うべき孤高な存在であること。
騎手武豊の完成された「柔」の名人芸。(かつて騎手だった父武邦彦もそんな存在だった)
騎手M・デムーロのスィッチが入ったときの勝負強さ。
それらは、雨の中の貴重な記憶として私たちの心に残っていくだろう。
雨はさらに勢いを増してきてはいたが、今日を終えた東京競馬場は闇に包まれようとしていた。
大雨で電車が止まるのを心配して、まっすぐに帰る予定だったが、この日隣り合わせに座っていた噺家桂文生師匠が、何と天皇賞の3連単を的中して、嬉しくてうずうずとしていた。ならば近場で生ビールでもと、皆がそそくさと帰る中、度し難い3人組で近場の飲み屋を探して歩き始めると、府中本町に向かう通路の下では、何軒ものもつ焼き屋が人を集めて営業していた。
通路の下にテーブルが並んで、雨の中でも濡れずにオープンスペースで楽しめるようになっている。これまで立ち寄ることはなかったが、たまにはこれも粋じゃないですかと、3人がその気になってくつろいでしまった。生ビールやレモンサワーに焼トンや煮込みに枝豆。それで十分だった。会計は、3連単の的中者・文生師匠が胸を張って「今日は任せて」と担当してくれて、私たちは、今日の天皇賞や今日の騎乗の名人芸から、世の中の名人芸にまで発展した話題で盛り上がって、結局2時間コースとなったが、帰りの電車に不都合はなく、何とか家に帰り着いたのだった。
だから競馬は面白い。今日の満足感は、そうとしか言えないのだ。
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