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卒業アルバム


2年前に関東でも起こった線状降水帯発生による洪水被害はまだ記憶に新しいが、それが今年、北九州や岐阜県辺りでも起こった。

温暖化の影響なのか、地球規模での気象現象は、今大きく様相を変えているのだろう。治山治水のインフラ整備は、想像以上の変貌を遂げている状況に、過去の統計数値も役に立たず対処もできずにいるようだ。もはや頭を切り替えて発想しなければ、命も保証されない時代が到来しているのかも知れない・・・。

カラッとした暑さならまだ我慢も効くが、ムッとするような湿気混じりの暑さは、ただただ肉体から元気を奪っていくようだ。

何も手付かず状態で、それならばと断捨離の心で書棚の整理をしていて、一冊の卒業アルバムを見つけた。
高校の卒業アルバムだった。


ページを開けると最初に「江原記念講堂」の正面写真。続くページには、あのときの歴史的事件が写真の証言によって再現され、その後におよそ300名の同級生たちの顔写真が並んでいる。

改めて今、見直すと、このアルバムを作った製作委員会有志の気高い情熱や、このアルバムの存在自体を許容した学園側の度量の大きさや、流れる自由の精神を十分に感じ取れるというものだ。

   


1970年3月から始まった全学集会を経て、4月、突如として現れたY理事長代行(確か旅館業経営者で教育者の資格はなかったと記憶している)による、それまでの自由な精神風土を無視した暴政を(学園資産の独断的売却なども噂されてもいた)、全学集会などの学園正常化を訴える抗議活動を通しながら、翌71年11月に学園生によって遂に打倒したリベラルな抵抗運動の記録でもある。
71年10月から11月まで、理事長代行は学園をロックアウトして対抗した。学園に生徒を寄せつけない姿勢には、やはり教育者の姿勢はなかった。

11月15日夕刻、校庭で行われた全学集会はエスカレートし、集う生徒たちに追い詰められたY代行は逃げるように退陣を確約し、翌16日、生物の吉川涼新校長がY代行の退陣発表をして、ようやく事態は収束に向かったのである。

1年半以上も続いたY代行による力づくの強権的手法は、自由自主の(しかし選択した結果責任は自分自身が負うという厳粛な厳しさがあるのだが)精神風土にはいささかも根付かなかったのである。

多感な10代のときに体験したこの光景は、実に印象的だった。代行側につく醜悪な教師も眼にしたし、生徒側と真剣に討論した良識ある教師の存在に安心もしたし、ロックアウトの強制的な休日を心の何処かで喜んでしまっている自分自身の愚かさをも知り得たものだった。

自由な精神風土とは、何物にも拘束されない自分自身だけではなく、もっと大事なことは、相手が邪ではない限り他者の自由を保障・許容することでもある。

私自身は未熟者だったから、そのことの本当の価値を体得するまでには、まだまだ時間が必要で、見せかけの自由を謳歌して人生を狂わせてしまったが(苦笑しかありません、ハイ)、おそらく10代の多感な時期にその本質を理解し得た優秀な男たちもいるだろう。

そう言えば、今時の人になっている前川喜平は、高1から高2の時期にあの光景を体感した。少し前の時の人古賀茂明は中3から高1のときに体感している。

おそらく彼らに共通する力に押さえつけられないある種意地っ張りな感性は、おそらく初々しい10代に体験した本物の自由な精神風土が大きく影響しているのだろう。
そう思えてならない・・・。

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