スキップしてメイン コンテンツに移動

ささやかなる3回忌~「優駿」4代目編集長福田喜久男 (2014年の夏に)

3年前の夏、こんな日もあった。
今月の末、また中野で、故人をあの世から呼び寄せる飲み会が開かれる予定になっているので、つい想い起してしまった。

           ☆       ☆
                       (2014年 8月 了)
人の噂も75日という。人の記憶も3年も経てば薄れていく。

でも、人には忘れようにも忘れられない想い出があるのも事実だ。私の場合は、夏が来れば想い出す遥かな尾瀬のような、あの男の想い出である・・・。

「優駿」4代目編集長を務めた福田喜久男。2年前の8月4日にあちらへと旅立った。となれば、今年は3回忌である。亡くなったときには、独身で家族に恵まれてはいなかった。だから、公式に第3者の誰かが言い出さなかったら、このまま忘れ去られて終わったに違いなかった。

しかし、お盆が明けても、どこからも音沙汰はなく、私は、さてどうしたものかと何となく落ち着かなかった。ダービーの折りには、JRA関係者との間で「夏の頃にまた中野<廣>で会をやりましょう」などとの声もあったが、どうも立ち消えの気配だった。人それぞれに日々の生活があれば、過去の想い出などは日々薄れていくのも致し方ないのだろう。それが世間でもある。

でも、本当にそれでいいのかと考えて、せめて私だけでも、一滴の酒をもって献杯しようかと考えたのだ。場所はやはり中野<廣>しか考えられなかったが、若い頃に周囲から福田喜久男と一緒になったらと勧められた経験もあるママさんと、私だけでは、如何にも淋しい。長きに渡って福田喜久男と朋友だった横浜の湯川章に相談すると、「明日は聖路加病院の診察日だから東京に出るから、明日の夕方はどうだい?」との話になって、突然のことだから皆さんには連絡はせず、ささやかにこじんまりと献杯しようかと、すぐに話はまとまった。ママさんを含めて福田喜久男を知る3人の会となった。

夕方5時。店のカウンターに集った。福田喜久男のグラスも用意して都合4人分のグラスに並々と酒を注いだ。
このとき、私は飲み手が現れないグラスに向かって言った。「たまにはこっちに化けて出て来ないと忘れられちまいますよ」
湯川章が言った。「オレはさあ、毎朝仏壇に向かって死んだ女房やみんなの顔を想い出しているんだよ。みんなが笑っているのが不思議だね」

現役バリバリの頃、福田喜久男の行きつけの酒場(この場所こそ<廣>のママさんの母がやっていた伝説の店だった)で、福田喜久男から言われたことがある。「なあ、鶴木君。酒場ってのは鍛錬の場所なんだよ。酒場で仕事のことを考えるのも鍛錬。大人の飲み方を学ぶのも鍛錬。何よりも、酒場は集う人間たちによって集う人も選ばれるから、そんな人たちと出会えるのも鍛錬さ。ほら、もう一杯飲みなさいよ。ハッハッ・・・」

そんなことを想い出していると、私と湯川章は、途中から隣り合わせた新しい人物と、如何なる偶然か出会いを得たのである。先生と呼ばれたその人は、本当に先生だった。茗荷谷で開業するお医者さんだったのだ。72歳で亡くなった父、自分、そして息子と3代の医者一家でもあった。

一度親しく話してしまうと、酒の勢いもあって、いろいろと話題は弾んだ。

出自を訊ねると、生まれは三河、少年の頃医者だった父と共に東京に出て、その昔私がずっと住みついていた駒場東大前にある駒場東邦高校から日本医科大に進んで、若かりし頃は大学や国立がんセンターで肝臓外科医として手術の腕を振るっていたという。

同郷ということもあって親近感を覚えたが、私が最も面白く思えたのは、駒場東邦で高校の途中まで、作家浅田次郎と同級生だったというさわりだった。岩戸康次郎(浅田次郎)少年は、公式には中大杉並高卒だが、中学から4年半駒場東邦生だったのだ。純真なる右翼少年でもあったという。三島事件をきっかけに自衛隊入隊もしたことを想い出すと、何となく一人の作家の精神風土も浮かび上がってくる。鉄道員で直木賞を受賞したときには、駒場東邦での同級生たちは、ブラスバンド部だった岩戸康次郎にトロンボーンを贈ったという。

ほぼ3時間、新しい出会いを楽しんだ私たちは、次の再会を約束して別れた。たぶんこの偶然の出会いこそ、あの世にいる福田喜久男が私たちに贈ってくれた今日のプレゼントだったのだ。そう思えてならない。

こんな予期せぬハプニングがあるからこそ、生きるということが面白くなるのだ。またひとつ、私は不思議な日を過ごしたことに大いに満足して、酔ってふらつく脚を引きずりながら、最終のレッドアローに乗り込んだのだった・・・。


コメント

このブログの人気の投稿

2017秋華賞~京都・内回り芝2000m 

先週の京都大賞典を横山典サウンズオブアースを軸にして、いわゆる縦て目の抜けで取り損ねたために、意気消沈して過ごした1週間だったのだが、思わぬ結末が待っていて、土曜の午後には予期せぬ微笑みに包まれてしまった。 まあ、こういうことがたまにはなかったら、楽しみのない人生になってしまう。そう思うと、頬の筋肉はさらに緩んでしまった。 と言うのは、こんな流れだった。 縦目で逃した京都大賞典の落胆と反省は、私にはダメージが大きく、一瞬頭をボーッとさせてしまっていたようだ 。ボーッとした中で、エエイとばかりに、まだ消してなかったAパットのキー操作をして、京都大賞典の後に行われた岩手・盛岡の南部杯(交流G1ダート1600m)を、ほんの少しだけ馬連で買ってしまったのである。先行するだろう吉原ノボバカラから、連覇を目指す田辺コパノリッキー、中野省キングズガイ、川田ゴールドドリームへの馬連3点だった。 その後GCはつけっ放しにして、レースの生中継も見たが、ゴールインした瞬間、圧勝したコパノリッキーに目を奪われて、何と2着にはキングスガイが届いたのだと錯覚して、そのままTVを消してしまったのである。京都のショックが尾を引いて、やはり頭はボーッとしたままだった。 それから1週間、反省の日々で何とか過ごしていた。土曜の午後に明日の秋華賞の軍資金は少しはあったのだろうかと、念のためネットバンクを調べてみると、何と思いがけず予想外に増えていた。取引明細を見てみると、どうやらJRAから振り込みがあったらしい。JRAの購入記録を見ても、毎日王冠は的中だったが、その配当は京都大賞典で失くしていた。だからJRAから振り込まれる筈はなかった。 そこで思い当たった。そう言えば南部杯を買っていた。そこでAパットの地方競馬から南部杯の購入記録を調べてみると、ノボバカラとコパノリッキーの馬連を確かに買っていたのだ。しかもノボバカラが人気の盲点となって、馬連は万馬券の結果だったのである。その配当が、JRAから振り込まれていたのだった。 ヒャーッ・・・。私は、この1週間を忍耐と反省の日々で耐えていた。ああ、それなのに、それなのに・・・。と、なれば、1週間の反省と忍耐は、そもそも無駄なことだったのか?いや、それを言ったらお終いかも・・・。 とにもかくにも、結果を知らずにいた...

2017秋・天皇賞(東京芝2000m)~やっぱり雨の中

  台風21号が北上し列島を抜けたかと思ったら、また週末に台風22号が通過した。週内からはずっと雨模様が続き、秋・天皇賞のスピード決着は望むべきもなかった。 関東では、土日にかけて雨脚は強まり、これはまた菊花賞と同じようなパワフルな競走馬魂が試されることになると、誰もが確信したに違いない。今や世界競馬の頂点に駆け上がっている日本競馬の巨大グループが、主として日本の競馬のために生産する名馬たちは、日本の軽い馬場に即応したスピードタイプの馬たちが多いから、秋華賞、菊花賞のような力とそれに耐えるだけの強靭な精神力が試されるような馬場になると、果たしてどの馬にスポットライトが照らされるのかが曖昧模糊とならざるを得ないのが、競馬ファンが直面する現実なのだ。 東京競馬場には11時ごろに到着した。西玄関受付から7階に上がり、しばらく椅子に座ってじっとしていた。大雨の中、競馬場に駆けつけるのも体力と気力が必要で、気儘勝手な山暮らしの身にはきついものがある。 雨は午後にはさらに強まる気配が濃厚で、途切れることなく馬場に降り注いでいる。それでもこの日、6万4千人のファンがどこやらから集ってきていた。これだけの豪華メンバーが揃えば、ライブで見たいと思うのは当然だろうし、雨が煙る不良馬場の秋・天皇賞などずっとなかったから、記念すべき記憶となる価値もあったろう。的中すれば喜びに包まれた記憶ともなるだろうし・・・。 何となくピーンと来た6Rの松岡正海ローレルジャックの単勝を買ってみただけで、9Rまでは競馬新聞と窓外に広がる馬場の状況を眺めながら時を過ごしていた。9Rの1000万条件の特別戦精進湖特別は、天皇賞と同じ2000mの距離で行われる。このレースをきちんと見守ったなら、今日の天皇賞のある種の傾向も判るというものだ。 結果は、何と2000m2分10秒1の決着で、上り3Fは38秒を要していた。良馬場の強い馬のスピード決着なら、2200mの時計である。すでに10秒以上時計のかかる水飛沫の跳ね上がる不良馬場となっている。天皇賞までに後1時間15分もあり、雨はさらに降り注ぐだろう。 GCの最終追い切りをいつものように録画して見直したりしていた。ひと目で気配の良さを感じたのはサトノクラウンだった。M・デムーロが前走毎日王冠で勝ったリアルスティールを降りてまで手綱を取る...

2つの案内状(桂文生独演会と故大内九段を偲ぶ会)

もうずっと太陽の姿を見ていないような気がする。 照りつける陽光、透き通るような青い空にムクムクと聳え立つような白い入道雲。8月の夏の記憶は、私にはそれが全てであるのに、止まぬ雨故に湿気混じりの日々が続いている。 湿気は私の体調維持には大敵なのだが、どうしようもない。自然の力には為す術などないのだと、諦めの日々で、ただただじっと時の過ぎるのを待っておとなしくしている。「ひよっこ」と「やすらぎの里」と、「竜星戦」「銀河戦」に週末のGCの「競馬中継」をひたすら友にするような生活態度は、世間様からから見れば、実に非生産的な愚かしい姿に見えるのだろうが、身体がだるく、それでなくても冴えない頭も働かないような現状では、気だけ焦っても如何ともしがたいのだ。 そんな折、2つの案内状が届いた。 ひとつは、第1回桂文生独演会。8月26日午後6時開演の池袋演芸場。 78歳の文生が「一人酒盛り」と「転宅」のふたつの噺を演じ、助演は、弟子の桂扇生が「千両みかん」、桂文雀が「尼寺の怪」 をかける。 これはもはや、桂文生の遺言の様な高座になると思い、行くことに決めた。(いえ、勿論半分本気で半分はジョークですから) 興味のある方がいらっしゃれば、ぜひ池袋演芸場でお会いしたいものである。(ちなみに当日券は2500円です) そう言えば、今は亡き大内九段が、桂文生の噺を国立演芸場で楽しんで、 「いやぁ、さすがでしたよ。文生師匠の噺は本物です」と、嬉しそうに眼を細めて言っていたのを想い出した。 もうひとつの案内状は、その「大内九段を偲ぶ会」の案内だった。 9月6日一ツ橋「如水会館」。 優しく、厳しく、人情には厚くも一言居士だった故大内九段の人となりに、ここ6年以上もの間身近に触れることになった私には、駆けつけても行かねばならぬ会だろう。明日にでも、出席のハガキを投函しようと思っている。 4五歩と指せば名人となっていた。1975年第34期名人戦第7局。しかし大内9段は読み切っていたのに、魔性の何かに取りつかれるように5手先に差すべき7一角と指してしまっていたのだ。名人位に限りなく近づき、ほぼ手中に収めた瞬間に、全てを失った大内九段。そのときの話を、大内九段自身の口から聞くことができたのも、今となっては私自身の大きな財産である・・・。 私自身が今こうしている間にも...