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時計を耳にあてると・・・


機械式の腕時計を耳にあてると、小さな音だが手巻き式だとカチッツ、カチッツとか、自動巻きならチッチッなどと、軽快な時の響きが聞こえてくる。それは心地よいさわやかな響きだ。

ここしばらく手間を省いてクォーツタイプの腕時計を使っていたから、確かに時が刻まれていく音を忘れていた。クォーツタイプは無機質で無言のまま針だけが進んでいくように思えてならず、耳にあてようともしなかったからである。(手元にあるオメガのクォーツを試しに耳にあててみたら何と小さな響きでカチカチ音がしていて驚いてしまった)

現在、Girard-Perregauxの角型手巻きとジャイロマチックと呼称する自動巻きを持っている。個人的には、機械式の腕時計は60年代から少なくとも70年代には、品質の基本設計はほぼ完成期を迎えたと考えている。そこから先はおそらくデザインなどのマイナーチェンジで目先を変えてきたような気がする。完成期を迎えた段階の機械は、おそらく90年代初頭には完成期を迎えていたガソリンエンジンの車もそうであるように、もはや発想そのものを衝撃的に変えるような革命的な技術革新などは無用だったろう。

完成期に達した機械は、それ故素晴らしい耐久性や追随を許さない精度を持つものだ。それは、手元にあるジラール・ぺルゴの腕時計でも証明されている。

現在の日本では、ロレックスやオメガの方が一般の知名度は高いが、実はGirard-Perregauxは、世界の時計の牽引車だった。日本とも縁を持っている。

ジュネーブの時計職人ジャン・フランソワ・ボットが自らの手によって初めて時計を作ったのは1791年だった。「世界の時計の帝都」ラ・ショー・ド・フォンの街を舞台にして往時180人もの時計職人を雇用して運営されていたボットの技術を後継するボット社(マニュファクチャリング工房と言った方が正解だろうか)を1906年に買収したのが、Girard-Perregauxである。

Girard-Perregauxは、1856年に結婚したコンスタン・ジラールとマリー・ぺルゴの名を組み合わせた工房名で、やがて東洋世界にも進出を目指し1859年にコンスタンの義弟フランソワ・ぺルゴをシンガポールに派遣した。翌1860年、フランソワは江戸末期の日本にも脚を延ばし、日本に初めて西洋時計をもたらしたのだった。

ボットのマニュファクチャリング工房から伝承された技術と精度と東洋進出をも果たしたジラール・ぺルゴの意欲が一体となれば、その評価は主流のメーカーとして高まり、評価が高まればその時計はさらにクォリティを増していくのも当然だったろう。

1867年のパリ万国博覧会においては”スリー・ゴールド・ブリッジ付きトゥールビヨン”が金賞を受賞、1945年には後に「ヴィンテージ1945」と呼ばれるようになる角型腕時計のフラッグシップモデルを発表、1957 年超薄型高性能自動巻きシステム「ジャイロマティック」導入。1969年にはクォーツ時計の製造に成功。(しかしビジネスとしては同時期にクォーツモデルを発表したセイコーの成果には及ばなかった。やはり機械式ムーブメントあってこそのジラール・ぺルゴということなのだ。ただ現在のクォーツムーブメントの周波数『32,768Hz』を定めたのは、先行したジラ―ルぺルゴとされている)

セイコーに負けたクォーツビジネスの結果、ジラール・ぺルゴは経営難に陥ったが、その後トラデマの社長故ルイジ・マルカーソの支援を得て、フェラーリなどとのコラボライセンス契約を果たすなどして経営再建され現在に至っている。

このように歴史的時間を抑えてみると浮かび上がってくるのは、Girard-Perregauxの輝きは、やはり現在よりもジャイロマティックが萌芽してやがて完成期を迎える60年代後半から70年代までの革新的な息吹にあるのではないか。それは機械式腕時計の成熟期でもあったのだ。機械式とは対極に存在するクォーツは、別の文化、別のジャンルの存在であり、共存はできても同じ視線で語られるものではないだろう。

私は懐古主義者ではないのだが、久々に手に取って耳にあててみた機械式腕時計の、妙に懐かしい機械の響きに、今、何とも言えぬ新鮮さを覚えている。明日にでも、道具を使って裏面を取り外して、シリコングリースでも注油してやりたい気分だ・・・・・。


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