ここ1週間、ようやく秋の気配が強まっている。
昨夜は中秋の名月の宵を迎えていた。中秋の名月の宵というのは、聞くところによれば、旧暦の8月15日であるという。太陽暦が始まる明治以前の人たちの8月15日は、既に秋の訪れを感じさせる満月を慈しむ夕べだったことだろう。
山の暮らしにも、明け方の思わず身が引き締まるような冷んやりとした気温や、黄昏を過ぎると騒やぐ幾種もの虫の声たちに、季節の移ろいを知らされるのだ。
この移ろいを感ずると、いつもホッとする。
燃える夏には、私は殺戮者=キラーマンだったからだ。間違いなく私は、真夏の殺戮者、いやそれ以上の虐殺者である。毎日のように10か、それ以上の命を抹殺し続けて、生きている。
それは、私自身の満足を得るための快楽殺戮、快楽虐殺であるのかも知れない。
犠牲者は、人ではないのが、私自身のせめてもの贖罪である。勿論、世の中には殺したくなるような人としての謙虚さも持ち合わせていない愚かな虚偽癖のある傲慢人間たちもいるのだが、まだ今の段階では、彼らは標的にはなっていない。おそらく、やがて彼らを本当に裁くのは、灼熱地獄の閻魔大王だろうと信じている。
真夏のキラーマンである私の標的は、カメムシ、蚊、羽虫、コバエ、蛾、アリ・・・たちだ。特に机回りの明かりに引き寄せられてくる奴らは、容赦なく叩きのめすことにしている。
山暮らしを始めた頃には、奴らの侵入も許容していた。カメムシが照明スタンドの上側のフレームを歩いていて、その姿が照明の灯りで壁に映し出されて、怪獣が侵入したのかとビックリしたこともある。それでも最初は許していた。
しかし奴らはここが安全だと知ると、カメムシなどは家具や書物の裏側など冬でも暖かなところを探し出して越冬して生殖をも繰り返して増殖を始めもした。それは私の許容限度を超える行為だった。放置しておけば、私の書斎はムシの館となってしまう。私の心は恐怖すら覚えた。
この瞬間に、私は真夏の殺戮者、真夏の虐殺者となった。
この夏にも、私は数百にも及ぶ命を虐げた。
私とムシたちとの間は、互いのテリトリーを守って同存するルールも協定も存在しない関係なのだ。
だから命を守ってやるより、命を虐げてしまう方が、容易い解決策となる。
私は真夏のキラーマン。私の前に現れるな。私だけの空間(と言っても、主として机回りだけの小さな空間である)を侵すな。
ムシたちよ、私は決して殺りたくて殺っているのではないのだから・・・。
昨夜、ときおり雲間から現れた美しいオレンジに輝く中秋の名月。その一瞬の美しさを迎える私の裏側には、こんな現実が蔓延ってもいる・・・・。
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