最近TV画面で見るのは、スカイパーフェクトTVの2つのチャンネルだけのことが多い。
民放TVなど、ああでもないこうでもないと相撲界の話や半島関連の話を聴き疲れてしまっているからだ。
だから結局は、GC(グリーンチャンネル)と囲碁将棋チャンネルを眺めてしまうのだ。深夜に、ベッドの中で布団にくるまりながら、竜星戦や銀河戦の再放送をかけっ放しにして、そのまま眠ってしまうこともあり、家族からは怒られている。いや、もう諦められているのだろうか。
その放送の中で、例えば将棋には「めざせプロ棋士」という番組がある。棋士になるための最終関門となる奨励会3段リーグの対局を解説付きで見られるのだ。
何度も見ていると、だんだん判ってくる。3段ともなると、ほぼ全ての戦型(相掛り、横歩取り、角換わり、矢倉、各種振り飛車等々)を身体で理解してみなが勝負に挑んでいる。
半期に2名がプロになることを許される現場で、そんな彼らが、最終最後に何を試されているのかと思うと、実に興味深い。
あるとき、ふと思った。最終段階にある彼らは、最後の関所で将棋の強さだけを試されているのだろうか?と。
すぐさま私は「いや、たぶんそうじゃない」と、否定した。
確かに強さや切れ味は、必要条件である。日々精進して積み重ねて来たものの集大成が強さだとすれば、3段ともなれば強さの発揮は当然だろう。
しかし強い彼らが最後に試されるのは、そのことだけじゃないのではないか?半年に2名がプロ棋士として選ばれるシステムを考えれば、最終関門を何とか通過した若い彼らが、それからの10年20年30年を棋士として日々戦い抜くだけの「勝負師としての粘り」
「勝負師として生きるための粘着力」あるいは「棋士であるための覚悟」といったようなものを、おそらく最後に問われているのではないだろうか?強さだけではない粘りの心が、棋士となるための十分条件で、それらを合わせなければ、プロ棋士は誕生しないのだろう。
どんなジャンルでも勝負師たるものの勝負強さとは、技術と素質に裏付けられた切れ味と、簡単には諦めない忍耐の粘り強さであることは理解できる。
石の上にも3年というが、粘りの人生の中で、ある瞬間に閃いて最善手となる妙手を見つけることは多いものだ。生き抜くということはそういうものなのだろう。
そんなこんなを、TV画面から見抜きだして、今日も囲碁将棋チャンネルやGCを眺めている。
ただ、見ていて見苦しく感じることもある。晴れて最終関門を突破して棋士となった彼らが、わずか数年のうちに解説者として登場する。と、聞き手である女流棋士が「先生」と呼ぶ。まだ○○4段や✕✕5段でいいのではないか?「先生」などと浮ついた言葉で呼ばれるのは、タイトルホルダーか、熟年以上の年齢の8段9段でいい。段位で呼ばれることこそ、彼らに対する尊称ではないのか?
まだある。聞き手役であるのに、解説までしゃしゃり出てくる自己顕示欲の強い女流棋士ら。TVに出演する以上、聞き手に徹してエンターテイメントをして欲しいものだ。
まだまだある。これは将棋連盟のHP。「本日の対局」や「対局結果」「対局予定」に棋士の顔写真が使われているが、これがLPSA所属の女流棋士やアマチュアだと同一画像にして写真は無し。身近に顔を知ることでファンは親近感を抱いて応援できるものなのに、いまだ改善する気配もなし。あまりにも失礼この上ない話だ。
紫綬褒章に国民栄誉賞、新永世竜王誕生に、中学生棋士の世間を賑わす大活躍。去年の今頃の暗さからすると、せっかく明るい朝日が注いでいるのに、いまだに傍若無人な失礼さが闊歩している。いや鈍感さが体質なのかも知れない・・・。
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