この夏、私にとって何と言っても印象的だったのは、8月8日に発表された今上天皇のお言葉だった。
「・・・日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。・・・」
という初めの言葉に、そのご意志が溢れ滲み出てくるように、300万人の命が犠牲となった先の大戦を踏まえて、天皇ご自身が絶えず国民と共にあり、自らを律し、平和を希求して止まない姿勢が満ち溢れていたのである。
今上天皇は、平和を願って、これまでも、そして今も、さらには未来に向かっても、闘っておられるのだと、改めて思い知らされたお言葉だった。
それは、偶像崇拝を忌避して、自らを個とする象徴天皇の務めを果たし、国民のみならず万民の平和を願う孤高の闘いを背負う男の姿と、私には思えてならなかった。
その務めを万難を排してやり抜き続けるために、敢えて高齢・健康に言及された「生前退位」や「自らの喪儀」にまで及ぶお言葉だったのである。覚悟に裏付けられているからこそ、それは感動的ですらあったと言えよう。
「・・・憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのようなときにも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話いたしました。国民の理解を得られることを、切に願っています」
翻って今、国政において対米追従のしっぽ振りによって権力の座にある政治家たちの多くには、どんな言葉で自身を飾ろうとも、これだけの信念・信義・覚悟は、垣間見られない。その場しのぎの詭弁とええかっこしいがあるだけだ。
この夏、私は、今上天皇のお言葉によって、改めて「孤高の闘い」の真の意味と美しさまでを教えられた気がする。
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