竹橋:如水会館に着いたのは会が始まる20分ほど前だった。
そのまま受付に向かうと、すでに一部開場されている部屋の中から、手を上げて合図を送ってくれる人物がいた。
エッ?誰だろう?と、目を凝らしてみると、何と駒師出石だった。ここしばらく連絡もしていなかったので、久し振りの再会だったが、時間の空白など少しも感じることはなく、この時代にそこにタバコ仲間がいてくれた心強さに安心感を覚えただけだった。
で、そのまま連れ立って3Fの喫煙デッキに向かい、一息ついて会場に戻ると、パテーションが開けられ献花の祭壇が飾られたその隣では、バイオリンとピアノの生演奏が始まっていた。
午後5時。「大内延介九段を偲ぶ会」が始まった。会場には、故人を偲ぶ150人ほどの人たちが集まっていた。
棋士で言えば、佐藤康光会長、西村九段、郷田九段らがいたし、勿論孫弟子の藤森五段、梶浦四段をも含めて大内一門は勢揃いしていた。
会が進めば進むほど、故大内九段の人となり、交友の広さが浮かび上がってくるように感じてならなかった。改めて価値ある人を失った無念が会場を包んだ。
5月5日のこどもの日、私は大内九段とお会いしたが、そのときの病にやつれた姿に、実は大きなショックを覚えていたのである。その半年前に会って、冗談を言い合った時とはまるで別人の姿だった。いつもの大内九段特有の精気が失われていた。だからこうなることは予感していたが、それでもまだ何度かは会えるはずだと信じようとしていたのだ。
しかし前立腺癌は、おそらく腰骨にまで骨転移し、その転移は肝臓に達してしまったのではないだろうか?同じ流れで身内を失ったことがあるので、医者ではない私でも想像はつく。
そう言えば、あのとき愛知・豊川の駒師清征が持参した2組の「怒涛流大内書」の彫り駒は、大内九段の遺品となってしまったが、それは鈴木大介九段が受け継いでくれたという。
その鈴木九段と、私と出石は会場で話をした。
「あの怒涛流大内書は、私がお願いして、一昼夜をかけて大内九段が書を仕上げ、この駒師出石が駒書体として完成させた言わば大内一門の宝物です。ぜひ鈴木九段にきちんと受け継いでいただきたいんです」
「そうですか。あの彫り駒もいい駒ですよね。先生の書体ですから大事にしなければいけませんね」
「出石は大内九段から依頼を受けて、すでに10数組の怒涛流盛上げ駒を作っています。これからのことはこの駒師出石と連絡を取り合って下さい」
「そうしましょう」
会が終わっての帰り道、私は出石と大内九段のことを改めて想い出していた。まるで子供のように楽しそうに詩吟を朗詠してくれたその姿。落語好きな出石の兄の小噺を一緒に聞いたあの日のこと。出石を翻弄した自宅での記念対局。神楽坂:龍公亭での美味しい中華食事会。盛り蕎麦をお代りした日暮里:若松での蕎麦会・・・・。そこにはいつも、その程度のものでは満足も納得もしない大内九段の心意気ある姿があった・・・。それが粋だった・・・。
故大内九段が、この日の偲ぶ会の参加者に最後に手渡したのは、「木鏡」と記された扇である。
浅学ながらその意を解釈すれば、「飾らぬありのままを映す」というようなメッセージに 受け取れる。
木には、素朴で飾らないありのままという意味が古来より込められている。水は、飾ったお化粧姿も包み込んでしまうが、木にはそれがない。敢えて「水鏡」とは記さず「木鏡」と記したことが、おそらく大内九段の遺言なのだろう。
重く深い言葉である。
浅学ながらその意を解釈すれば、「飾らぬありのままを映す」というようなメッセージに 受け取れる。
木には、素朴で飾らないありのままという意味が古来より込められている。水は、飾ったお化粧姿も包み込んでしまうが、木にはそれがない。敢えて「水鏡」とは記さず「木鏡」と記したことが、おそらく大内九段の遺言なのだろう。
重く深い言葉である。
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